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てんしとあくりゅう

2015年12月26日

  小説『天女と悪龍』(てんしとあくりゅう) 


                 作 築港万次郎(ちっこうまん・じろう)

  この小説はフィクションです。実在の人物・団体・役所等とは関係ありません。
               (注:高松の人は絶対に読まないでください)


第1章 色白美人バレリーナ香西しおりは、うどんでダイエット

 ミシュランが世界から選ぶ3つ星の観光地は、わざわざその国へ観光に行きなさいである。1つ、あるいは2つ星はその国へ行ったついでに観光しなさいである。
 香川県オールド高松にある栗林公園は、ミシュラン3つ星がついた日本でただひとつの大名庭園である。
 今日は2040年12月21日である。一年で一番日照時間が短い、太陽のありがたさを思い知らされる冬至の日である。 
 栗林公園の池に反射した日の出の光がブラインドのすきまをぬけて、香西しおりの寝室の天井にゆらゆらと波紋を描き、しおりの起床をうながした。
 今日のしおりの予定は、上海からの観光客に高松城の史跡を案内することである。
しおりはパリから高松に戻ってきてからは、筋力を維持するために動のバレエと静の太極拳をミックスした踊りを、月見櫓前の小公園で実践していた。
踊りの動画がネットに流れ、太極拳の本場である上海の若者から高松城跡の観光案内をうける人気者になっていた。

 一人暮らしのしおりが住む15階建てのマンションは栗林公園のすぐ横に建っている。その最上階のしおりのベランダからは、絶景の庭園をぞんぶんにながめることができる。
 東西南北を碁盤の目状に区画された高松市の中心街であるオールド高松は、京の街並みとおなじように風水、陰陽をふまえた理想郷としてつくられている。
 冬至の日の出の光をうけて、すべてが南向きに建てられたオールド高松の家屋は神の祝福を受けるかのようにの東面と南面をいっせいにかがやかせる。
 しかし、この瞬間にあっても鬼門の北東に向いた高さが四国でいちばんの建築物である高松シンボルタワーだけは、かがやくことなく薄暗くたたずんでいるのである。
 香西しおりは10年間をパリでバレエのプリマドンナとして大活躍をしていたが、20年前にフランスからふるさとの高松に帰ってきた。若年性アルツハイマーの認知症になった母と老衰の祖母を介護するためであった。
 帰国から20年がたった。しおりは今年で48歳になった。しおりの母は78歳。その母の母であるしおりのおばあさんはめでたく100歳になった。
 行政の手厚い社会保障のおかげで、しおりはふたりを有料介護老人住宅に入居させることで介護から開放されていた。親族後見人になったことで母と祖母の受給年金を管理することができ、自身の生活費に困ることはなくなった。
 
しおりが6年間をアルバイトをした「さぬきうどん足立屋」の店主足立は、中心市街地再開発事業のキーマンで、しおりはオールド高松の歴史を足立からいっぱい教えてもらうことができた。
現在のアルバイト先は、職人仕事の織合(おりあい)表具店である。14年目になる。
郷土の文化にかかわり手に技術がつくような仕事をさがしていたしおりは、格好の職業にであった。表具というレアな職人仕事である。
香川県には表装の仕事が多い。四国88札所の巡礼を終えたお遍路さんは、各寺院で書きこんでもらった88札所と、最後の高野山金剛峰寺の本尊の名前と朱印を掛け軸に表装する。
勤め先の店名は織合表装店という老舗店である。この店はかつて丸亀町グリーンのG街区内土地の権利を所有していたが、商店街再開発事業には参加しないで少し離れた現在の場所に移転した。
人通りをあてにした商店街でなくても、職人色の仕事は立地場所をえらばない。むしろ店の前に2台の車が駐車できる方が客には便利だ。しおりは技術指導に熱心な店主がいるこの店で表具師見習いになった。
老舗の表具店には四国88カ所めぐりの遍路関係の表装だけでなく、古文書や消息文、また古地図などが数多く持ち込まれてくる。
 14年間のバイトで、香西しおりはいっぱしの表装技能士になっていた。破れたり保存しにくくなった古地図や古文書の持ち主にとって、郷土歴史研究家になったしおりは学芸員なみに頼りになる存在になっていた。

香西しおりは前作小説『源内コード』で大活躍をした。その時代から20年たった今も美形を維持している。かつてはプリマドンナ。ヨーロッパ各地の有名オペラ座でバレエを踊り大人気であった。
やむなく日本に帰って来てからも、ときおりバレエ教室にあらわれて美しいシルエットで踊るしおりの姿は後輩のあこがれであった。ウエストは60㎝をオーバーしたことは一度もなく、だからと言って特別なダイエット法を実践しているわけでもなかった。
しおりは母と祖母の看病をするために高松にもどってきた。惜しげもなくプリマドンナの座を捨ててしまったことは、関係者を驚かせるとともに、老齢化社会する日本の悲劇を世間に知らしめた。
現役を退いてからのしおりの鍛え抜かれた体型は同じ年代の女性から見ると、うらやましい限りの体型である。
見た目も48歳とは思えないくらい若い。一見すると20代後半と言っても過言ではないし、しおり自身もそう思っていた。それはうぬぼれでもなんでもなく、日ごろの努力の賜物だと思っていた。
ただ一つしおりを悩ませていることがあった。少し早いと思ってはいたけど更年期障害の症状が出始めたのだ。特に冷えのぼせとかほてりの症状が現れ出したのだ。
今まで他人事のように思っていたのについにやってきた。「おばさん・・・か…」およそ口にしてはいけない言葉がついつい出てしまう。体調の変化に気が付いたしおりは決意をして食事療法をさらに押しすすめた。
 しおりはそれでも20代から続けているマクロビオティックの食事をずうっと継続している。彼女の故郷の友人たちは若くいられるかその方法を聞き出しても、しおりのように継続させてはいなかった。
 しおりは毎日の食事を2食にしている。これが健康の秘訣である。朝はたべない。昼食は讃岐人らしくおうどんが欠かせない。お気に入りのうどん屋は女性客にも人気の綿山(わたやま)で、もっぱら390円の肉うどんをオーダーすることにしている。うどん玉の量が多くて「小」でも一般店の2玉分くらいは十分にある。 
しかし夜は炭水化物のカロリーを控え、讃岐人が日本一摂取がにがてだという生野菜を必ず350㌘は食べている。香川県民は糖尿病が日本一である。古文書をよみながらゆっくりと噛みしめて食物繊維をとり、昼食のでんぷんをチャラにしてしっかりと栄養管理をしている。
 

    第2章 ふるさとを熱愛する、インド修行帰りの田中陽太郎

 20年前に田中陽太郎は、高松城の遺跡を守るため「血屋敷井戸」の破壊にかかわった罪人4人を『ダヴィンチ・コード』のシラス役になりきって暗殺した。
 田中は事件が発覚する直前に、日本を脱出してインドに逃亡した。そして、世界各国を巡り、神秘でスピリチアルな世界遺産の聖地をたずねながら自己修行をかさねた。
 逃走中はインド式刺青(いれずみ)のへナタトゥーを描くことで生活費をかせいだ。刺青は田中が独自に調合した薬草の顔料で龍神の絵を肉体にかいた。ヒンズー教には日本的な龍神をあがめる習慣はないが、それがインド人には目新しかったのか龍の絵は爆発的な人気を得た。
 若者は若気のいたりで刺青をいれたがるが、後悔しても消すことはできない。田中のあざやかな色彩のへナタトゥーは1年もすると自然に肌から消えるので、刺青のおためしをしたい人にはうってつけであった。しかも絵具はヘンナをはじめ全てが薬草でできているので、その刺激で体にとてもよかったのである。
 田中はブラックジャックのような闇の医者である。讃岐大学医学部を主席で卒業後、最先端の外科医療技術を学んだ田中は、逃避行で世界中をまわっているあいだに、患者の差別なく魔術のような手術で多くの命を助けてきた。
 インドを起点にして逃避行をつづけていた田中陽太郎(48歳)は、そろそろほとぼりもさめた頃だろうと、ふるさとの高松にもどってきた。
ふるさと高松に久々に帰ってきた田中は街の変貌に目を見張るが、あまりのわざとらしさが見て取れて、一瞬にしてがっかりした。
 田中のいない20年もの間、高松市は全国どこにでもある都会化はしていたが、地元文化が成熟しているとは感じられなかったのである。

 香川県立ミュージアムは高松城あとの敷地に120億円もの大金をかけて新設された。竣工当初の名前は「香川県立歴史資料館」である。
 高松市内には小説『源内コード』に出てくる立派な美術館と、図書館をかねた歴史資料館がある。香川県には大規模な美術館が無く、新築するにも歴史資料館にお金をかけすぎたために予算がない県は、苦肉の策としてこの建物の名前を後日ミュージアムに変更して、歴史資料陳列ブースをけずったスペースに美術作品を展示するようにした。
世界の秘宝を見てきて目のこえている田中陽太郎は、安っぽい美術品と複製された歴史資料をならべた香川県立ミュージアムの運営にあきれてしまった。展示品にそえられた解説札の右上に、小さな星印があるのがイミテーション品である。香川県立ミュージアムでは五ぼう星(北極星)を贋物(にせもの)の印としてつかっている。
パリのルーブル美術館を見てみろ。ロンドンの大英博物館を見てみろ。展示品に偽物やレプリカはほとんどない、と田中は思うのであった。
エジプトのカイロ博物館もツタンカーメンの黄金マスクは、本物を公開している。カイロ博物館の悲しいところはロゼッタストーンがレプリカで、本物が大英博物館の玄関に展示されていることである。同じレプリカ品であっても、ロゼッタストーンは侵略の歴史を伝える貴重な展示品である。
西島八兵衛が水源の安泰を祈祷した大兎模(だいうぼ)石碑も、本物は栗林公園の中庭で雨ざらしになりながら、模造品が資料館で大切にガラスケースにおさめられて展示されている。
 田中は香川県立ミュージアムに歴史資料として展示されている物のうち、はたして何%が本物だろうかと調べてみた。結果はほとんどがイミテーションで、たまにある本物は劣化を恐れて照明がされていなかった。
このミュージアムのシンボルは巨大な太助灯篭(とうろう)である。建物の天井高は太助灯篭の高さ7㍍が基準になって設計されている。
太助灯籠の本物は今も風雨にさらされながら丸亀港に置かれている。丸亀港の太助灯籠の南面は窒素酸化物を含んだ排気ガスや、雨のためにほとんど消えかかっている。それでも海側に面した部分はかろうじて彫られた名前を読むことができる。火入れ口は透かしになっていて、常夜灯のように遠くからでも灯りが見える。
野ざらしにされた太助灯籠はいたみが激しくなっている。ミラノのダビデ像のようにイミテーションをもとの屋外場所に置き、本物は美術館で保存すべきである。
しかしその話を目先のことしか頭にない役人にもっていっても、相手にしてはもらえない。
そこで故郷讃岐を愛する田中は、真実を知ることの大切さを県民に理解してもらうために思い切った手段に出る。
香川歴史資料館に浸入して、資料館のシンボルである、張りぼて太助灯篭を爆破することにした。灯篭の照明を裸電球からLEDに改造する、作業員になりすまして灯篭内部に時限爆弾をしかけた。爆発を5分後にセットすると、田中は歴史資料館を脱出し、西隣の玉藻公園東入口に急いで向かった。


   第3章 ミシュラン3つ星栗林公園 VS 高松城跡玉藻公園

 大阪府と大阪市が二重行政であるように、香川県と高松市も縄張りの利権で対抗意識をむき出しにしている。
 県が高松城の外堀石垣を削って県民ホールを建てれば、市は県主導のサンポートシンボルタワーのなかに市民ホールをつくる。
 高松が市立図書館を新築すると、追いかけるように香川は県立図書館を新築する。県立病院を新築すると、市立病院ができるといったぐあいである。建築場所はどれも新高松市内である。県庁舎と市庁舎は、どちらもよりそうようにオールド高松市内に建っている。
 ミシュラン観光ガイドブックの3つ星に選ばれた栗林公園は香川県観光課の領域、つまり縄張りである。
 栗林を「りつりん」とまともに読めるよそ者は少ない。どうしても一般読みの「くりばやし」になってしまう。読みにくくしているのは、この公園をかくして秘密にせねばならぬ歴史があったからである。
 
 都道府県は県を代表する木、花、鳥、さかなを認定している。香川の県魚はハマチがえらばれている。在来魚ではないが日本で初めて海洋養殖に成功した記念に採用されている。
 香川の県木はオリーブである。在来木でないオリーブが選ばれた理由は、オリーブがキリシタンの聖木であるからである。
 そして県花もキリシタンの歴史を記憶するために、開花でたいしたもりあがりのないオリーブがえらばれている。
 高松城を建設したのは黒田官兵衛である。オリーブの小豆島にはバリバリの、キリシタン大名小西行長と高山右近がいて、彼らの強引な布教活動で、讃岐には日本最多数のキリシタンがいた。
 まもなくキリスト教が禁止されると多くは長崎に逃げこむが、逃げずに隠れキリシタンになった信者も多くいた。現在も人口当たりの教会の数は日本一である。
 県鳥はホトトギスである。なき声は「東京特許許可局」とか「ラッスンゴレライ」と聞こえる、地味な色をしたハト大の鳥である。
 鳴かないホトトギスは、武将の人生訓になぞらえてきた。
 荒あらしい織田信長の生きざまは「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」とあらわされる。根回しの豊臣秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」である。棚からぼたもちの徳川家康は「鳴くまでまとうホトトギス」で天下を手に入れた。
 讃岐国初代戦国大名生駒親正も、ホトトギスで生きざまを表現することができる。それは松平家藩主そしていまの香川県民にもつながるずる賢い生きかたである。
 県鳥は「鳴かぬなら、かくしてしまえホトトギス」とする香川県人の座右の銘をあらわしているのである。
 歴史を調査するのは20名の学芸員である。高松市にも10名の歴史学芸員がいるが縄張りがちがうので栗林公園を調査することはできない。
 高松市は栗林公園の調査はできないが、公園周辺の都市計画の権限がある。しおりが住む古びた高層マンションは建て直しを計画したが、公園を見おろす建物はミシュランにふさわしくないと市は建築を許可しない。
 
 軍師官兵衛が設計して建てた高松城跡は、呼び名が玉藻公園となり高松市公園課が長らく管轄していた。昨今のお城ブームで公園ではまずかろうと担当を文化財課にうつした。もちろん、県の文化財課はおもてだっては入ってこれない。
 玉藻公園の周りには栗林公園よりもはるかに多くの高層ビルや広告看板が立ち並び、城跡の景観をいちじるしく悪くしている。しかし、建築指導する立場の市には史跡認識がうすく、公園的なイベント会場ととらえていて撤去の要請はしていない。
 栗林公園ではじめた舟遊びが人気になった。あとを追うように玉藻公園でも舟遊びがはじまった。ここでも県と市のライバル意識が発揮されている。
 
 栗林公園は500年ちかく前に高松城でつかう飲み水と木材を確保するためにつくられた大名庭園である。世界のランクづけ出版社が選んだ名園であはるが、日本三大庭園には入っていない。水戸の偕楽園に遠慮したからである。
 親藩大名の高松松平家と御三家大名の水戸藩徳川家の藩主は、代々交互に養子縁組をして跡継ぎしているのである。一段格下の高松はつねに水戸に順位をゆずるのである。

 日本の未来は少子高齢化と製造産業である一次二次産業の衰退と、国債の巨額な借金でお先まっくらな状況になっている。たよれる収入は三次の観光業だけである。
 四国の玄関として中央省庁やら民間企業の支店が、オールド高松に集中している。省庁の出先でただひとつ、郵政省だけが無い。郵政省はテレビの放送業で文化の発信をおこなう、三次産業の先鋒である。
 オールド高松にミシュラン3つ星がひとつあるだけでは集客力は弱い。世界の旅行客をよびこむキーワードは遺跡である。その場所にしかない歴史文化を体験するために、遺跡をめざしてお金を落としに人々は観光旅行するのである。
 香川県観光課が管理する栗林公園をおとずれる観光客は、高レベルなボランティアガイドの案内をうけられる。県のガイド員になるためには、郷土歴史の勉強と勤勉な案内回数がかせられている。
 高松市公園課が管理する玉藻公園には、登録されたボランティアガイドが百名ほどいるが、公園の入場者の少ないせいもあってガイド員が常駐していることはめったにない。

 玉藻公園の案内看板やパンフレットでは、高松城が黒田官兵衛のかかわった城であることを秘密にしたいために、もっとも知られていない孝高の名を採用している。
 大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送された2014年には、官兵衛にかかわるすべての都道府県は、放送にあやかり観光客訪来をあてこんでおおさわぎをした。奇妙なかぶとをはじめとしたおみやげ菓子や関連グッズを製作して街おこしにはげんだ。
 ところが香川県だけは、いっさい黙殺を決めこんでドラマをスルーした。ドラマの中盤では徳川家康と対峙する生駒親正が中老のテロップ入りで登場するシーンがあったにもかかわらず、郷土史家をふくめた香川県内のすべてがだんまりをきめこんでしまっていた。
 なぜならば高松城は世間に知られたくない、玉藻公園の中に隠しこんでしまいたい秘密の城だからであった。 
 高松城跡を愛するしおりはお城の秘密を調査するために、1年間だけ市外郭団体のガイド員を体験をした。
 年会費千円をはらえば多くの特典がついてきた。玉藻公園入園料200円が毎回タダになり、研修と称した一万円そうとうの日帰り親睦バス旅行をさせてくれた。決算報告を兼ねた総会では千円相当の昼食弁当が支給された。年間300回入園していたしおりは、会費千円の支払いで、ざっと計算して7万円が還付されたことになる。
 ガイド員のほとんどが65歳以上の年金をもらって遊んでいる後期高齢者たちである。総会で昼食をたべたあとの勉強会では歴史の講演はなくて、救急車をたびたび呼んでも断わられないテクニックの伝授であった。玉藻公園ならでわの講演であった。

玉藻公園ボランティアガイド協会長の梅松公子は、100歳を超えてもめちゃくちゃ元気である。
玉藻公園を管理する高松市は、この公園が城跡であることを世間に知られることを極端にきらっている。ネットで「高松城」を検索しても、まっさきに出てくるのは「備中高松城」である。
高松市は公園派の公子をじょうずに利用した。公園派は城の石垣の保存よりも、石垣の上に植えつけた森のようにはびこる樹木が大好きなのである。
栗林公園の数にまけまいと所かまわず大小雑多に木を植え増した。台風にあおられ、雷にうたれた巨木は城の石垣を容赦なく破壊するが、公園派にとってはそれもしゃれた風景に見えるのである。

 あるときガイド員だったしおりは、ドンの公子に呼び出されきびしく注意を受けた。
「あんた、なんでもかんでもお城の歴史をしゃべられたら高松市が困るのよ。渡してあるガイドマニュアル書に従ってガイドしてちょうだい」
公子は歴史に詳しくない。詳しすぎるしおりに嫉妬もしていた。観光客にうけるガイドをする若い、きれいなしおりの人気が妬ましかった。
公子がボランティアガイドする説明はお城好きが期待する説明ではなくて、もっぱら新被雲閣とその庭園である。どちらも大正時代につくられた武士の時代ではない物件である。
 お城派のしおりにとっては玉藻公園の外にある四越百貨店までの範囲が、高松城跡を観光客に案内したい領域である。四越所有地から発掘された世界で一番恐ろしい名前がついた「血屋敷井戸」は、ぜひともガイドしたい高松城きわめつけの観光遺跡である。
 しおりを監視していた公子は玉藻公園の園外にある血屋敷井戸を、入園客がよろこんでいたにもかかわらず、公園外を案内した罪で、1年の任期終了直前にしおりを協会からクビにしてしまった。


    第4章  海都ベネチアをまねた、海都高松城の7不思議

さっきまでの青空がにわかにくもり、ゴロゴロと遠雷の音が聞こえはじめた。龍神がまねいた暗黒の積乱雲が、玉藻公園上空におおいかぶさった。
 香西しおりは上海からの観光客を連れて高松城跡のガイドをしていた。いつものバレエ&太極拳を観光客といっしょに、玉藻公園北そとの小さな港湾公園で踊った。
大好評の踊りが終わると、しおりは玉藻公園のそと周りの石垣を案内した。お城跡を見に来た観光客には、ところかまわず樹木が森のように植えられた玉藻公園の内部よりも、海波と接していた外堀石垣を見てもらうほうが高松城らしさを伝えられるのである。
ボランティアガイドを終えたしおりは玉藻公園駐車場へとむかった。
田中陽太郎は県立ミュージアムにあるイミテーションの太助灯篭を爆破すべく、灯篭(とうろう)に時限爆弾をしかけた。急いで県立ミュージアムの西隣にある玉藻公園駐車場にもどろうと小走りに走った。
駐車場の前にある、玉藻公園東入口にかかる旭橋で2人は20年ぶりに再会したのである。かおを見合わせて『源内コード』の時代がなつかしくよみがえるのであった。
そのとき太助灯篭が大爆発して、県立ミュージアムに陳列されていたイミテーショングッズが吹き飛んでいった。と同時に巨大な雷の閃光が、2人の頭上に落ちた。
 煙がたちこめる旭橋の上には、冬のいなづまに打たれてうずくまっている香西しおりと田中陽太郎がいた。
 消えさる煙の中でふたりはようすをうかがうようによろけながら立ち上がると、変身した自身の姿におどろいた。
 しおりのからだは450年前に高松城の城主であった生駒親正の奥方さま、生駒毬亜(まりあ)と入れかわったのである。着ていた衣服はしおりの着ていたダウンの洋服から、毬亜姫が身にまとうきらびやかな着物にかわっていた。
 そして田中は250年前に高松城で足軽として勤めをしていた、平賀源内と体がいれかわったのである。頭はスットンキョンなちょんまげで腰にはだらしなく一本刀をさし、手には気取った長キセルをもっている。
 現代にうまれかわった鞠亜は450年ぶりに、中堀に橋がかかっているのを見ておどろいた。
 源内と毬亜は高松城跡の玉藻公園を東門から西門へと順番にあゆみながら、ふたりが暮らした時代の内緒の話をかたりあうことで、高松城に秘められた7不思議をときあかしていくのであった。

 雷にうたれたショックからたちなおったしおりの体を借りた毬亜が、田中の体を借りた源内に質問をした。
 「源内さんにおたずねします。黒田官兵衛さまが造った高松城には旭橋はなかったはずですが、どうしてこんな立派な橋がかけられているのですか?」
 豊臣秀吉の野望であるアジアの王になろうとして、黒田官兵衛は朝鮮出兵にそなえた軍港を、高松と中津と名護屋に築城した。毬亜の夫、生駒親正は讃岐高松国の城主であった。
 「毬亜さまにお答えします。旭橋を作ったのはわたくし源内です。あさひ橋は朝鮮出兵あとの高松繁栄を象徴するシンボルになる橋を作れと、高松藩五代城主の松平頼恭(よりたか)さまの依頼によるものです」
 毬亜は源内の話を聞くことで、軍師官兵衛が設計した高松城の所有権が豊臣秀吉家臣の生駒家から、徳川家康の孫の松平家に移ったことを知るのであった。
高松城は別名、玉藻城と呼ばれる。城跡は昭和30年高松市が運営する公園として市民に有料開放された。高松城は日本三大水城(みずき)のひとつとされている。
しかし、海や河口に突き出た城はあまた存在するが海の上に孤立して建つ城は高松城だけである。高松城は戦国時代に黒田官兵衛の設計で造られた、イタリアのベネチアをまねてつくられた日本でただひとつの海城である。
 さすがの軍師官兵衛も、海の上に軍港をつくるという発想はできなかった。海や川や湖につきだしてつくった水城は全国にどこにでもあるが、関西空港のように、海上に浮かぶ城郭は日本のどこにも無かったからである。
 
 つくりかけた引田城を中断して、現在の場所に高松城を築くアドバイスをしたのは宣教師オルガンチーノであった。安土桃山時代に入ってきたキリスト教はカトリック派の、ベネチアからはじまったイエズス会である。
 オルガンチーノのふるさとは、イタリアのベネチアで、高松城と同じ干潟の上につくられた人工土地の都市である。イスラエルの聖地を奪還するために十字軍がたちよる軍港として、当時のヨーロッパではいちばん繁栄した街である。
豊臣秀吉は織田信長の野望を引き継いで、中国明(みん)と天竺(てんじく)インドを征服することにした。用意はしゅうとうで朝鮮征伐のための軍港として1588年に高松城はつくられた。同じ年に黒田官兵衛領地の中津城も完成させる。つづいて官兵衛が設計した佐賀の名護屋城には、朝鮮と最前線で対峙する北端岬に生駒親正の陣が置かれたのである。
1592年大坂城を出発した軍艦は瀬戸内海につくられた、高松城と中津城で食料と火器を積み込み、前線基地であり日本最大の名護屋城では兵隊が乗り込んで朝鮮に攻め込んでいったのである。
高松城はキリスト教の聖地エルサレムをイスラムからとりもどすために戦争に行く、十字軍の中継港として、当時ヨーロッパでいちばん栄えていたイタリアのベネチアをまねた港湾都市である。
世界一美しい瀬戸内海の海上商都にはずかしくないように、官兵衛はお城の設計に美しさを追求した。現存する倉庫級の月見やぐらでさえも、丸亀城のほんもの天守よりもうつくしく大きくつくられているのである。

天正15年(1587)豊臣秀吉に仕えていた生駒親正は秀吉は豊臣政権の中老職である。石田三成ら5奉行、徳川家康ら5大名の仲を取り持つ重要なポストであり、秀吉の財産を隠す金庫番であった。
讃岐に転勤になった生駒親正は、京に近い引田に城をつくりはじめる。このとき親正に赤穂から同行してきた、書記役人が足立部長のご先祖である。
戦国時代では当然の守りに徹した、水城を引田湾に築きはじめたが、完成まじかになった1588年、秀吉の朝鮮出兵が内密に決定される。秀吉は織田信長を超えるために、信長のはたせぬ夢であった大東亜の王になろうとした。
秀吉の命令で来た軍師黒田官兵衛の設計で、讃岐の中心に高松城は完成する。
豊臣秀吉は朝鮮出兵を実行する。親正は、文禄元年(1592)朝鮮出兵に5,500人で参陣、この時は嫡男一正も一緒である。一正は慶長2年の尉山・南原に2,700人の兵を率い戦功をあげた。
将兵や武器の輸送には塩飽を中心とした瀬戸内の水軍が32隻の軍船と650人の水夫が徴発された。軍船の船縁には生駒氏の印である御所車輪を描いた幔幕を張り巡らせていた。
激しい波にもまれる幔幕の下半分が玄界灘の波に隠れて見えない。これを見た秀吉が、波の上で勇ましい半分の車模様を家紋にするよう薦めためた。これが生駒家だけの波切り車紋になるのである。 
450年前生駒家時代の高松城玄関門は黒田官兵衛が設計した、海から出入する水手御門である。官兵衛は国内ただひとつの画期的な海城教会をつくりあげた。
あれから200年、松平家時代の玄関門は発展した城下町から入城する、平賀源内が設計した旭門である。源内は最高級石材庵治石を美的に加工してアートな枡形をつくった。
 玉藻公園東入口前に架かる旭橋(あさひばし)は、高松城中堀にかけられた橋である。城のなかでもっとも重要な橋であることは、欄干柱のすべてに宝珠形のぎぼしがすえられていることでわかる。
 玉藻公園の範囲は公園東口の旭橋から、公園の中心にある天主台、琴鉄築港駅前にプラットホームがある公園西口までである。
 オールド高松にはこれほどの広大な面積をもつ名所が3ヶ所ある。1つは玉藻公園、2つ目は高松城大名庭園の栗林公園、3つ目は高松城の北端の海を埋立造成したサンポート地区である。

 数人の観光客が鞠亜と源内の横をすりぬけて、旭橋をわたり東門受付で入園料200円ずつを払い園内に入った。
 タイムスリップしたふたりの姿は現代の人々には見えないが、ふたりからは公園化した城跡を散策する観光客のすべてが見えるのであった。
 入園客をつかまえた梅松公子は高松市ボランティアガイド協会の会長である。さっそく玉藻公園を公園派らしく案内をはじめるのであった。
 
  <高松城7不思議その1 枡形>
 「ななめに渡した旭橋と、東門につづく枡形(ますがた)は敵を防ぐ城のつくりです」梅松は玉藻公園を管理する高松市公園課からわたされたマニュアル本のとおりに解説をする。
 マニュアル本は高松城の城跡を、どこにでもある戦国時代につくられた水城としてあつかい、松平家がのこした玉藻公園に重きをおいて説明するように作られている。 
 源内はガイドの案内解説を横で聞いていて、そのいいかげんさにあきれ果てた。そして源内が造ったななめの橋とうつくしい枡形の、歴史的真実を毬亜にかたるのであった。 
 北西に向け、ななめ45度に架かった橋の名は旭橋という。橋の渡り始めは南東の冬至の日の出がはじまる向きである。橋の欄干にはぎぼしがあしらわれていて、橋は城の表玄関である旭門につながる。
 ボランティアガイドは橋の傾きの理由を、城に攻め入る敵を両側から攻撃しやすくするためにとしているが、まったくのウソである。
 日の出とともに開門する旭門へと、旭橋をわたるのは敵ではなく商人である。源内は商人を城にむかえ入れる、歓迎の趣向を橋と枡形に芸術性をとりいれたのである。
 旭橋がかかる下の中堀をのぞいて見ると、底までが異常に浅い。干潟の上に埋立して造営された城郭は、干潮時に外堀の石垣をほんの少しでも崩されれば潮が引き、すべての堀は空堀になる。敵が城内に侵入しようとすれば、わざわざ橋をわたらずともどこからでも攻撃されてしまうのであった。
 高松城は戦国時代につくられた城でありながら、防御のことはいっさい配慮していない。城は瀬戸内海を往来する商人によろこんでもらえる美しい商業都市として造られたのである。
 旭橋の上に集まった商人たちは、日の出とともに開門する瞬間をまちこがれている。太陽がのぼりはじめると、閉ざされた旭門の先にある天主がかがやきはじめる。高さが姫路城に匹敵する白亜の天主の姿は荘厳である。そして左手がわには、高松を守護する龍神が住む紫雲山がかまえている。
 旭橋の配置は平賀源内が殿様の参勤交代に同行して、江戸城を見たときの感動を高松城に再現したものである。
 江戸城の玄関橋は日本橋で、これまで20回ほど架け替えが行われているが、源内が見た日本橋は掘りにななめにかかっていて、その先には江戸城天守跡があり、左手方向には日本の聖山である富士山があった。浮世絵にもよくえがかれている美しい構図である。

 源内と毬亜は入園客らに気づかれることなく、旭門から枡形に入り石積みを見上げた。野面積み石垣しか見たことのない毬亜は枡形石垣の、加工の美しさに感動した。日本一美しい切り込みはぎを造った源内は、いまの生垣と化した石垣を嘆いた。
 城の石積みには戦国時代から江戸時代まで、3段階の工法で進化してきた。
 第一期は織田信長が安土城で施工した「のづら積み」である。そこらに転がっている石をひらってきて積み重ねるのである。四隅を割り石にすることはヨーロッパ宣教師からおそわった。ヨーロッパの家は割り石を重ねてとてつもない高い教会を建てている。
 第二期の石積み工法を「うちこみはぎ」という。ざっとした注目のない工法である。
 第三期の石積み工法を「きりこみはぎ」という。高松城跡には築城1588年から廃城になる1868年まで、280年間の石積み進化の3工法がすべて存在している。
 高松城の枡形は登城する商人を歓迎する、千利休式の茶室である。商人を枡形にとじこめて、これから城内で始まる商談を機嫌よくしてもらうためにウエルカムドリンクを提供する場所として、源内が最高級の庵治石をパズルに組んで囲った野点の茶室である。
 
 埋門(うずみもん)は茶室のにじり口を模している。北面のパズル石積みには床の間をかざる掛け軸の絵がひそまされてある。商売人が喜ぶ生き物は亀である。高松の城下町中心は丸亀町と亀の名がつく。
 源内は日本のダヴィンチと称される天才画家でもある。石垣には20匹の亀が描かれている。11角の石を頭にして左を向いた亀を見た者は、大金持ちになれる可能性がある。9角の石を頭にした亀が一番大きな亀で、いつかは官兵衛のように天下取りをねらうことができる。
 西面の石垣には、床の間にかざる花が飾られている。源内は千利休「一輪のあさがお」の逸話を石のパズルで表現しているのである。枡形の接点はすべてが直線で組あわさっているが、なんと一点だけが曲線になっている。千利休は金儲けのひけつを生駒親正にさずけていたのである。うつくしく咲くあさがおも多くては価値は下がる。たった一花しかないならば、億千万に値するという商いの教訓を表現しているのである。
 枡形に敷かれた赤いじゅうたんの上で抹茶と茶菓子をいただいた商人たちは、枡形に秘められた掛け軸の亀と花瓶のアサガオを妄想で鑑賞し、気分をマックスにして城内の正門である桜御門へと左回りで城内に進んでいくのである。
 戦闘型の枡形は武器を意識して右回りの進入路にするのが常識であるが、商売本位の高松城枡形の設計は平和な左回りである。

   <高松城7不思議その2 空襲焼け石>
 桜御門の前には桜の馬場とよばれる広場がある。足軽だった源内は馬が走るじゃまにならないようにと、草むしりをしたこともあった場所である。公園扱いになった馬場跡は馬場の面影はなく、桜名にちなんで桜の木を植えまくっている。
 さくらの花見どきには酒宴がくりひろげられる。高松市民がもっとも玉藻公園に親しむときである。
 桜の木はどれも幹が細くて小さい若木である。これは平成16年に高松を直撃した台風16号による高潮で、城堀の海水があふれ出て全滅した古木桜のあとがまだからである。

 戦国時代にあって、日本でゆいいつ戦うことを放棄してつくられた高松城は、祈りで敵を撃退するため祈祷所を数多く設営した。やぐらのすべては祈祷所である。その中心が龍櫓(りゅうやぐら)である。祈祷(きとう)は効果ばつぐんであった。
 負けが濃厚になった太平洋戦争終盤のころ、おいつめられた日本軍は自爆特攻作戦に望みをたくした。
 対戦相手のアメリカは一億総特攻になった日本をふきとばすべく、原爆作戦をすすめていた。 このとき日本は偏西風を利用して、コンニャクのりで補強した紙製風船爆弾を乾燥したカリフォルニア州に落としてアメリカ全土を焼き払おうとしていた。風船爆弾は何人かのアメリカ人を殺したが、原爆ほどの成果はなかった。
 神にもすがる大本営は、祈祷信仰のあつい高松城の龍神さまに本土防衛をたくした。
 高松城の龍櫓ではアメリカ敵大将をのろい殺す祈祷がおこなわれた。効果はばつぐんで、ミクロの姿に変身した龍神は悪龍となってルーズベルト大統領の脳内に飛び込み、血管をかみちぎって殺してしまった。
 祈祷に怒ったアメリカ軍は昭和20年7月4日の真夜中、オールド高松を空襲して壊滅させたが、龍神が守る高松城だけは爆撃から助かった。 
 龍神が高松城を守ってくれることを信じていた市民は、桜御門をとおりぬけて全員が助かっていた。海水を抜いた堀底につくった防空壕に逃げ込んだ市民は、龍神にまもられて全員が助かっている。龍神伝説を否定する市民は、四散逃走して一夜で2千人が焼け死んだ。
 このとき高松城を守る龍神は、延焼を桜御門まででくいとめた。燃え上がる門を消すために龍神は巨大化して雨雲をよびよせ、豪雨を降らせて必死に消火をした。
 門やぐらが焼失した桜御門の石垣には、熱せられて冷やされたときのショックでできた亀裂がはいっている。この亀裂石垣は後世に残さなければならない、高松空襲の貴重な歴史遺産である。
 ときおり入園者のなかに、ひび割れた石垣にひたいをあてて涙する地元市民がいる。彼らの親族は空襲当時、高松城の龍神伝説を信じていなくて、高松城に逃げ込まなかったために焼け死んでいた。
 桜御門のひびわれた石垣は龍神信仰の、平和を願う讃岐版「なげきの壁」である。

   <高松城7不思議その3 一文字石垣>
 桜御門をすぎて三の丸に入るやいなや、壁のような一文字石垣がある。幅18㍍奥行1.8㍍高さ1.8㍍の野づら式と打ち込み式がつながった石垣である。ガイドは披雲閣に突入する敵をあざむくためと、どこにでもある城のつくりとして説明している。
 秘密でみたされた高松城の石垣は、常識ではかたれないものがたくさんある。直線の石垣は毬亜の長男である生駒一正と、その長男である正俊(まさとし)の墓であると源内は毬亜に教えた。野づらの下に一正、打ち込みの下に正俊の石棺がならんで収められている。
 生駒親正とその妻毬亜の霊は親孝行な長男一正が、菩提寺である郷憲寺に巨大な五輪塔墓を建ててとむらっている。一文字が墓であることが、一正と正俊の菩提寺法然寺にはまともに地についた墓がみあたらない理由である。
 
 一正と正俊は母と同じく隠れキリシタンであった。遺体は教会式の彫刻がほどこされた石棺におさめられ、一文字石垣壁の下に埋葬されているのである。
 源内の説明でこの事実を知った毬亜は、石壁にもたれついて泣きくずれるのであった。
 
 一文字壁の北奥に披雲閣(ひうんかく)とよばれる御殿がある。いま見ている割烹旅館のような平屋建物は大正時代に再建された新披雲閣である。2014年、用意周到に行われたにもかかわらず、天守閣復元が中止となった。引き換えに、文化庁が重要文化財に指定したとうわさされる木造家屋である。重要文化財指定となり、国から維持補修費の補助金がもらえるようになった。
 源内が見ていた江戸時代の旧披雲閣は、これよりも2倍も大きくて豪華なつくりであった。披雲閣という名は、龍神がもたらす恵みの雨雲がおおいかぶさる建物という意味からつけられている。讃岐国は夏場の雨量が極端に少ないため、水のうばいあいでご近所さんとの殺し合いもめずらしいことではなかっかった。
 桜御門とつらなる石垣の東端には龍やぐらがあり、毬亜をはじめとして歴代城主の姫が、龍神さまのご加護を祈祷していたのである。龍神が雨雲をひきつれてきて、大地に雨をふらせてくれるのである。龍櫓という名のつくやぐらは、高松城だけである。
 披雲閣前の玄関庭には龍神にささげる、おそなえ物の円や球があしらわれている。塀は円形に造られ、庭木は球状に剪定されている。城の上空をパトロールする龍神にとって、お供えされた円や球がパワーになるのである。龍神の爪ににぎられたドラゴンボールになるのである。
 武術よりも祈祷に頼る高松城の櫓は全てが礼拝所として使われ、神の使いの鹿を祭る鹿櫓もあった。

  <高松城7不思議その4 おんな高松藩主>
 玉藻公園のいっかくに陳列館と表記された粗末な建物がある。毬亜も源内も見たことのない建物である。
 公園派ガイドが入園者たちを陳列館の中に案内していくが、鎧兜や鉄砲弓刀が一品も無い館内ではお城の説明できるはずがない。
 公園派ガイドは早々に入園者を新披雲閣に誘導して行き長々とガイドをする。公園派には陳列館に展示された高松城の歴史資料よりも、大正時代に造られた新披雲閣と、それと同時に造園された新裏庭が大好きなのである。

 陳列館入口前の横に、割り竹でふたをした古井戸がある。毬亜が井戸を見つけてなつかしんだ。「この井戸が、高松城を守る秘密なのですよ」
 源内も城内の井戸には詳しかった。「この井戸も、底までもぐって調べましたよ」
 高松城は海に浮かぶ埋立地である。どこに井戸を掘っても、わいてくる水は海水である。海水がほしければ、わざわざ井戸を掘る必要はない。城のまわりは海だし、堀も海水をひきこんでいるのである。高松城の特異なところは、海水しか湧かないのに日本一多くの井戸が掘られた城であることである。
 毬亜と源内は陳列館へとはいっていく。館内にはガイドをともなわない客も少しいたが、陳列品におもしろさを発見できなかったようで、そさくさと出て行ってしまった。しかし、タイムスリップしたふたりにとって館内には感動の品々が陳列されていた。 
 入館すると左回り観覧コースの一番手にでてくる陳列品は、江戸時代披雲閣の間取りが描かれた図面である。
 間取図を見た源内の顔がゆるんだ。「この絵はわたしが井戸を調べて描いたものです」
 毬亜の顔がひきつった。「井戸にかくされた秘密は、だれにも知られたくないのです」
 
 くわしく書かれた高松城主歴代年表が掲示されている。干潟に黒田官兵衛の設計で造られた高松城が、天守閣をとりこわして玉藻公園になるまでの400年間のできごとである。
 源内が目ざとく年表のなかにキーワードをみつけた。「わたしの名前がでてるじゃないか」
 横に幅びろく書かれた築城から現在まで450年間の年表の中間どころに、源内と城とのかかわりが書かれてあった。
 この年表の記述を読み解くと、城主生駒家が高松城を秘密の存在にしたがっていた理由がわかるのである。「鳴かぬならかくしてしまえホトトギス」の真意である。
 大坂を出発した軍艦は軍港高松城で、武器食料から兵隊をつみこんで朝鮮征伐に出発した。勝ち進んだ秀吉軍の大名たちは凱旋帰国するときに、軍艦に積めるかぎりの朝鮮王朝の財宝と職人や美人を持ち帰った。
 戦勝の証として殺した朝鮮人から切り取った鼻の数をかぞえて、秀吉の代理で金銀をさずけるのが中老職生駒親正の役目であった。鼻は岡本の耳塚に丁重に葬られている。
 生駒親正は捕虜100人と馬50匹持ち帰ったと書かれている。捕虜とはつかまえた敵の軍人のことである。親正は女好きの秀吉によろこんでもらうため、とっておきの美人をさらってきたのである。民間人を拘束することは拉致という。馬とは財宝の意味である。
 
 それぞれの大名が奪ってきた朝鮮の財宝はすべて高松城に集められ、血屋敷井戸下の地下金庫にかくされた。略奪品をいちどに秀吉にわたすと、朝鮮に出兵していない徳川家康にうばわれてしまう恐れがあったからである。秀吉が望めば、そのつど高松城から大坂城におくりとどけていたのである。
 朝鮮から奪ってきた最高の秘宝が、高松駅エントランスにある生駒毬亜の「赤のだいてんまい」がささげている秘宝である。赤い箱はマグラダのマリアの棺である。生駒親正の「黒のだいてんまい」がささげている箱の中には朝鮮王朝の財宝が詰められている。
 テンプル騎士団が一度はルーブル美術館ガラスのピラミッドの地下深くに隠した棺は、めぐり巡って朝鮮王朝に隠匿されていた。それを見つけた官兵衛が高松に持ち帰り、高松市美術館のナガレバチ地下深くに隠していたのであった。 
 朝鮮出兵が終わってから200年後にお城勤務をはじめた源内は、当時20才になり給料が安い足軽身分に嫌気がさしていた。足軽とは県庁で働く最下位派遣社員のようなもので、賃金はいまの年収では40万ほどをもらっていた。
 かしこい源内は防御能力がまったく無い高松城の造りと、やたら多い海水の井戸から城の役割をときあかした。朝鮮出兵の財宝と平時に城主が稼いだ財産は地下金庫にあると見当をたてて、10年かかって血屋敷井戸の底から発見する。
 もうこんな貧乏はいやだと、高そうな財宝をえらび持てるだけもち担げるだけかついで、ひとはたあげるために江戸へと旅立ち、エレキテルで有名人になるのである。
 
 高松の歴史で知られてはならない、もうひとつの秘密が歴代城主一覧表である。
 生駒親正が治めた讃岐国は今の香川県に相当する。1587年から54年間つづいたが、藤堂高虎の生駒家に対する嫉妬で4代目のときに秋田に転勤させられた。城主が消えた讃岐は土器川をさかいに東は高松藩、西は丸亀藩に二分割された。
 高松藩初代藩主は徳川家康の孫の松平頼重である。松平家は明治まで11代228年間つづく。
 頼重と種も畑も同じ6つ年下の弟は、超有名な水戸黄門である。城主一覧表からは松平家の、「鳴かぬならかくしてしまえホトトギス」のわけがよみとける。 
 徳川家三代目将軍を選ぶときに騒動が起こる。ナヨナヨしたできの悪い長男家光をえらぶか、しゃきっとかしこい次男を選ぶかで迷ったときに跡継ぎの条件を決断したのは家康である。
 人選のごたごたで家臣の忠誠心が対立ことをおそれたのである。厳格に年長順で世襲すれば国家は安泰であると家康にアドバイスしたのが家光の乳母春日局(かすがのつぼね)である。
 頼重は家康が決めたあとつぎルールでは、とうぜん水戸徳川家の2代目にならなければならないはずである。頼重は賢者と称されるほど優秀であった。かたや弟の黄門こと光圀は、テレビドラマとはうらはらに乱暴もので藩主にはふさわしくなかった。
 なぜできのよい長男の重頼が水戸徳川家を相続できなかったのであろうか。香西しおりはこの謎を30年かけて解くことができた。この謎はすでに平賀源内も解き明かしていた。
 
 水戸藩主になれなかった頼重は、女で生まれたのである。誕生と同時に京都の公家や寺院にあずけられ、花嫁修業をさせられた。二十歳を越えたころになると体の異常を感じはじめ、やたら城主になりたがった。性同一性障害であった。からだは女であるが、心は男なのである。
 水戸藩領内の小さな城が頼重にあてがわれるが、頼重は満足できなかった。弟よりも大きなお城の城主になり、天守閣の頂上にのぼりたかった。
 水戸藩内で文句を言っててもラチがあかないと、ちょくせつ江戸城へ陳情にのりこんだ。
ときの将軍は徳川三代家光であるが、家光は仕事がいやで大奥にとじこもる生活をしていた。家光に代わって頼重のまえに出てきたのが春日局(かすがのつぼね)である。
 春日局は頼重の悩みをよく理解できた。体は男で気持ちは女の家光の悩みと同じだからである。
 うまいぐわいに生駒家がいなくなった高松城があいていた。さっそく春日局は頼重の願いをかなえるべく家来に手続きをさせた。条件は女であることを絶対に知られてはならないということである。高松藩初代藩主松平頼重は男装の大名として高松藩に着任した。
 
 頼重は春日局に感謝するために高松に着任するやいなや、城の近くを流れる古川の名を春日川に変更させた。
 女であることがばれないように、高松藩主松平家系図は細心の配慮がなされている。二代目は水戸黄門の長男が養子縁組でやってくる。それからはひんぱんに両藩との養子縁組がくりかえされて、高松藩の城主の名前にはすべてに頼の字がつけられて頼重が女とわからないように血統の正しさを強調していく。 
 江戸で活躍していた平賀源内は晩年、アスペラス症候群の悪化でつぎつぎとトラブルをおこし財産をなくしてしまう。
 金策に困った源内はひいきにしてくれた五代藩主松平頼恭をたよって高松藩江戸上屋敷へ行ったが、すでに殿様は亡くなっていた。面識のない六代目藩主は源内になんの愛着もなく、けとばすようにして門前からおいはらった。頭にきた源内は、源内だけが知る高松藩の秘密をゆすりのネタにした。「おまえの先祖の頼重が女であることをばらしてやる」と大声で叫んだ。
 源内が危険人物と判断した高松藩は、源内を罪人にしたてて幕府の牢屋にぶちこんだ。牢から開放してもらうため、最下層から大出世をした境遇で仲のよかった老中田沼意次に救助をもとめたが、田沼よりも高松藩のほうが実力がまさっていたので助けてもらえなかった。「かくしてしまえホトトギス」を守らなかった源内は、高松藩の刺客によって牢の中で謎の死をとげてる。

 陳列館のメインコーナーに天守のしゃちほこのレプリカが置かれている。しゃちほこの人相はいたって優しい表情をしている。
 高松城の最初の天守は、聖母マリアを祭る教会として建てられた天主である。愛する生駒毬亜のために、黒田官兵衛が建てた。高松城のランドマークは礼拝場であるから、古地図には天主と描かれている。
 生駒家は天主を聖母マリアのチャペルとして使い、松平家は天主を天守に改装して祈祷の寺院として使った。
 明治になると廃城令に従順にしたがい、ほとんど無傷で残っていた巨大で美しい松平家の白い天守は、高松市民はなにひとつ抵抗運動をしないなかで撤去されてしまった。
 松山市をはじめとする城下町都市では、天守とりこわし命令が発せられても市民の抵抗で天守はまもられ、のちの観光資源として大活躍している。
 ブロンズで造られたやさしい顔のしゃちほこの2㍍高にもなる大きさでわかるように、高松城天主の高さは姫路城とほぼ同じであったことがわかる。
 毬亜が南蛮天主の姿を源内に説明した。「はじめは南蛮の教会のように屋根の上にはドームがあり、その上に大きな黄金の十字架がつけられていたのよ。キリスト教が禁止されるとあわてて普通のお城の屋根の形に改装したけれど、軒先瓦には十字架の文様を私がいれさせたのよ」瓦の文様は亀甲クルスである。天主台改修のさいに発掘された紋瓦はつきみ櫓の陳列棚に展示され、天主が教会であったことを証明している。
 そのほかにも高松城の秘密を知る手がかりになる陳列品がたくさんならべられている。高松藩最後十一代藩主の奥様の父親は、桜田門外の変で水戸家臣らに暗殺された井伊直弼である。千代姫さまの結婚、離婚、そして再婚のいきさつは「かくしてしまえホトトギス」のたとえで理解することができる。
      
   <高松城7不思議その5 県木オリーブ>
 陳列館を出たあとの見所は、新披雲閣東側のゴミでかくれた屋外井戸である。井戸口を囲むふち石は円の形をしている。
 円形の井戸で有名なのは「リング」の貞子である。この井戸からも夜なよな不気味な、伸びた手とたれさがる黒髪がでてくる。
 高松城の秘密を知ったものは、この井戸の底にしずめられて口封じのために殺されているのである。生駒一正は高松城と丸亀城を完成すると、工事を担当した口の軽い石工職人をこの井戸に投げ込んで殺した。隠し金庫や脱出トンネルのそんざいを、よその現場にいって酒の席で話されてはこまるからであった。
 いっしょうけんめいに高松城のためにはたらいて、あげく殺されたのでは成仏できるはずがない。「うらめし~やぁ」の声であえぐ怨霊を封印するために、井戸の上にはふたがかぶされ、そのふたがはずれないように厳重にチエ-ン(鎖)でまかれている。井戸の霊を祭るために、4本の柱に屋根をかぶせた天蓋(てんがい)がすえられている。
 不吉な井戸の存在が知られないように、丸井戸の周りはごみ置き場のようにして視線から遮断している。お城派ガイドの力が強い丸亀城にも石工殺し伝説の井戸があるが、歴史をかくすことなく案内されている。
 丸井戸の役割を知っている毬亜と源内は、井戸の中の怨霊にふかぶかと頭を下げてもくとうをした。

 次にいく水手御門への道筋に、オリーブとシュロの木がならんで植えられている。どちらの木もキリスト教にかかわりの深い樹木である。オリーブの木で十字架は作られて、キリシタンの聖木である。イエスキリストが処刑場まで十字架をかついで、登る道のりを清めたのがシュロの葉である。
 イエスキリストはゴルゴダの丘で十字架で殺されるとき、信者がしきつめたシュロの葉をふみしめて丘にのぼっていく。復活したイエスは40日後、オリーブの丘から天にのぼり神になるのである。
 源内に変身している田中陽太郎はオリーブとシュロを見て、体の血が熱くもえた。田中はインドで修行しながら、世界各地のパワースポットへも見聞旅行をしていた。イエスキリストが処刑場へ、みずからつるされる十字架をかついで歩いたゴルゴダの丘へも旅をして見聞をひろめていた。
 水手御門は生駒毬亜時代の高松城の玄関門である。門の両脇にはふたつの立派なやぐらが建っている。400年まえに800㍍四方の面積で、海に埋立地の海洋商城ができた。海面から高さ2㍍、幅6㍍、800㍍四方を低い石垣と浅い堀だけでまもる城は、戦争になれば守るすべがない。
 水手御門は高貴なお客をむかえるときと、殿さまが参勤交代に出かけるときに開く海城としての儀式的な飾り門である。
 渡櫓(わたりやぐら)南東すみの石垣に、小さく刻印がほりこまれている。3つ刻印が意味する秘密を知っているのは毬亜であった。「隠し刻印石をこわした人は地獄へ落ちるのよ」
 
 3種の刻印うち、ひとつ目の丸にクルス紋は聖母マリアをあらわしている。高松城をマリアの愛でやさしさで守ってくれている。ふたつ目の蛇の目紋は、風水の龍神が悪魔を打ち負かすパワーのドラゴンボールである。
 3つ目の刻印はあえて見つからないように石の裏にしくまれてある。高松を守る結界石には聖母マリアと同じ丸にクルス紋が彫りこまれている。紋のぬしは海の上に高松をゼロからつくり、四国一番の商業都市へと繁栄させた黒田官兵衛である。丸にクルス紋は官兵衛の花押である。
 官兵衛が設計した高松城には城を守る重要な16ヶ所の方位に、裏がわに黒田と生駒の紋を彫った結界の関守石をひそませている。
 毬亜は渡櫓の石垣が築城当時のままに保存されていることにあんどした。もしもこの関守石がこわされたならば、高松の街を南海地震の津波がおそう予感がしたからである。

 玉藻公園を東門から入園して、園内を一方通行で観覧すると西門が出口になる。西門は高松城跡が玉藻公園として開園した昭和30年5月5日こどもの日のために、高松駅方面からの利便性に配慮して改築された門である。既存の門石垣のすきまはコンクリートでしっかりと固定され、石垣の上には森のように樹木がうえられた。
 うかつにも、改築工事中に門石垣の関守石をはずしてしっまた。開園から一週間もたたない5月11日早朝、ベテラン船員が操船する岡山行きの国鉄連絡船紫雲丸が、高松港の目の前で局地的な暗黒の龍雲に、巻きこまれて沈没し多くの小中修学旅行生がなくなった。対岸の宇野港ではこんぴらさんへ行く高校生尾藤四郎が、いつまでも来ない連絡船をまっていた。


    第5章 モンサンミッシェルをまねた、高松城天主南蛮教会

 二の丸の敷地は城内周辺よりも3㍍高く盛り土がされている。殿様と姫様が暮らす豪華な御殿が建っていた場所なので、台風のたびに来襲する高潮にそなえるためである。
 高潮がおそうと埋め立てでつくられた高松城は、二の丸と石垣の上の建物以外はすべてが海水で水没してしまうのであった。
 コンクリート防潮堤と強力排水ポンプで高潮にそなえた現在ですら、昭和16年の台風ではオールド高松は海水におそわれ甚大な被害をこうむった。
 二の丸には枯山水づくりの庭があり、堀をおよぐタイが龍に化身して空にのぼるための滝が配置されている。

<高松城7不思議その6 天主南蛮教会>
 本丸へ入るには二の丸から鞘橋(さやばし)をわたらなければならない。現在も屋根ととびらのついた木製の橋がかかっている。
 「鞘の名のように、この橋には屋根があり壁があり扉があったのよ」橋の名の由来を毬亜は源内に説明した。
 刀をおさめる鞘の中は、のぞきこめば真っ暗である。この橋をわたるには真っ暗な中を通りぬけるようにつくられているのである。
 秀吉の大坂城にも本丸につうじる極楽橋がかけられていた。暗黒の橋の中をとおりぬけると金ぴかに輝く天守が現れる、感動を演出する細工がされていた。
 お城のランドマークになる建物を天主または天守という。織田信長の安土城は天主であり、豊臣秀吉の大坂城と徳川家康の江戸城は天守である。
 天主とあらわされるのは安土城と高松城だけである。安土城は信長自身が神であり主であることに由来する。高松城は聖母マリアを祭る教会、すなわち南蛮寺であることから天主となっている。
 天守閣と閣つきで一般に呼ばれるようになったのは、空襲で焼け落ちた大坂城を昭和30年代に鉄筋コンクリートで復元したとき、復興のシンボル通天閣にあやかったことからはじまっている。

 高松城の本丸にかける橋をキリシタンである黒田官兵衛は、ゴルゴダの丘で十字架にかけられて処刑されたイエスキリストの、遺体を安置した岩の洞窟をドラマチックに演出しているのである。
 処刑から3日後マグラダのマリアは、イエスの遺体をもとめて老侍女とともに暗黒の洞窟の中にはいっていく。すると岩の安置台の上にからはイエスの遺体は消えさっていて、洞窟の奥が後光で輝いていた・・、というイエス復活の話を、筒状の鞘橋から岩山階段がある天主にかけて、官兵衛は本丸を設計しているのである。
 鞘橋をわたりおえると、頭上はまるで後光がさすように明るくてらされるようになっている。  
 通常お城の本丸は最後の陣をはる場所であり、持久戦に対応するためにそこそこの広さが必要である。高松城の本丸はテニスコート2面ほどしかなくて、多くの兵隊を篭城戦で収容する面積はない。本丸は教会への参道なのである。
 城内のどこを掘っても湧き出る水は海水である。 官兵衛が天守を建てる位置を決めるとき城郭の中で一か所だけ干潟のなかにチョロチョロと真水がにじみ出る場所があり、掘り下げていくと聖水が湧き出てきた。ここを教会の天主をおまいりするときにつかう、手や口を洗うみそぎの井戸にすることをきめた。お清め聖水井戸の形状は正四角形である。正は聖にもつうじる形である。
 本丸をとりまく内堀の北面には中堀も外堀も無くて、瀬戸内海と石垣ひと幅で接している。閉鎖した内堀では現在、先行した栗林公園の池舟遊覧に対抗して城堀舟遊覧イベントが催されている。全国に数ある城堀遊覧舟の中では、日本一移動距離の短い遊覧である。
 公園化した高松城内堀では鯛釣りイベントも催されて人気であるが、イベント後日にはストレスをうけた多くの鯛が浮かんでいた。 
 
 高松城を設計した城づくりの名人軍師官兵衛にしても、干潟に都市をつくるという発想はできなかった。それができたのは同行していた宣教師オルガンチーノのアドバイスがあったからである。オルガンチーノの出身地はイタリア・ベネチアである。「わたしの街はいまヨーロッパで一番繁栄しています。ベネチアをまねしてつくれば、日本一の繁盛する街がつくれますよ」
 1549年フランシスコザビエルから始まる日本のキリスト教は、カトリック系のイエズス会であり発祥はベネチアである。
 キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒とからとりもどすため、結成された十字軍はベネチアを経由して戦場にむかった。干潟につくられたベネチアは軍需でヨーロッパ一番の繁栄をした。

 官兵衛は高松城を建設しているあいだ宣教師とともに、積極的にキリスト教の布教活動をおこなっている。
 生駒親正の色白美人奥さま毬亜姫も、けいけんなキリシタンになった。共通の信仰で官兵衛と毬亜姫は愛しあう仲になっていく。キリシタンでなくても不倫はご法度であるから、2人の秘密はかくされ後世までばれることはなかった。
 生駒親正は毬亜の不倫には気づいていたが大人らしくふるまい、信者にはならずに波切不動明王を信仰して妻の不倫をかくした。
 高松城天主は官兵衛が毬亜のために建てた教会である。天主で礼拝できるのは、毬亜と老侍女のマキだけしか許されなかった。マキは奉公さんの愛称でよばれることもあった。
 官兵衛は妻の光(てる)姫にも入信をすすめるが、光はおんなの直感でふたりができていることをさっちして、毬亜への嫉妬から生涯キリシタンになることをこばんだ。

 干潟の砂の上に13㍍の高さまで石を積み重ねて天主祭壇の1階までつくったところで、工事はストップした。海岸に転がっている自然石をそのまま積み上げる、野面積み工法ではこの高さが限界であった。石垣の中の部屋を地下というが、高松城の天主台には地下階はない。
 2階から上は日本人が得意とする木造建築で天主は完成した。高さは約43㍍もある。
姫路城クラスの高さである。最上階は教会のドーム屋根になっていて、頂点には黄金に輝く巨大な十字架が立てられていた。
 外見は5階建ての天主であるが、中は吹き抜けである。4面の外壁の内側には回廊がすえられていて、天蓋(てんがい)で祭られた祭壇を取り囲むようにつくられていた。
 高知城のように最上階にはふつう大きな窓があけられ、景観をたのしむための縁側がつくられるはずである。
 瀬戸内海のながめが楽しめるはずの高松城天主には、頭をつきだすこともできないような小さな窓しかなくて、南蛮づくりといわれる小窓には貴重なステンドグラスがはめこまれていた。
 
 おまいり時刻の東からの日の出とともに、天主内部はステンドグラスの光でみたされる。天主への入場は西入り口のごつごつとした石階段である。上下二層になった階段をのぼるようすは、苦難のなかで岩の洞窟にイエスをさがしもとめているように見える。
 上層の階段はキリストの秘密を知って抹殺されたテンプル騎士団にちなむ13である。いま数えると12段しかないが、築城当時には天守の入り口門には木製の敷居があって、これで13階段になっているのである。石は千年万年先まで残っているが木はほとんどが消滅している。遺跡を正しく見学するには、朽ちて消えてしまった木造のそんざいを思いおこすひつようがある。
 ご先祖が残した石でできた遺跡は、後世に千万年先までも残し伝えることができる貴重な文化遺産である。地元を愛する人は、金銭にかえがたい石の遺跡を保存して街の繁栄に利用しなければならない。
 とくに井戸遺跡を破壊するときには注意がいる。先祖と子孫の命をつないだ井戸をこわしたとき、関係者にはおそろしいたたりがあると昔から伝えられているからである。
 
 キリスト教信仰が禁止されると、あわててドームと十字架はとりはずされて普通のお城の屋根に改造された。
 しかし、信仰はひきつがれて天主のシャチホコの姿は神社仏閣にあるようなシビのかたちになっている。青銅でできたシャチホコには金箔がほどこされ、目には巨大な赤いルビーがうめこまれていた。
 避雷針と同じ青銅でつくれば落雷で天主は焼け落ちるだろうが、高松を守る竜神様は雷雲をよびこんで恵みの雨を城下にふらせてくれたのであった。
 軒先瓦に彫られた紋は、毬亜の亀甲クルス紋である。生駒家の家紋は御所車紋からはじまり、朝鮮出兵の成功で水切車紋に変更している。もうひとつの紋が三つ亀甲紋である。亀甲の中に花の絵があるのが一般であるが、キリシタンの毬亜は亀甲の中に十字架を入れていた。 
 高松城天主の姿は南蛮造りとよばれてきた。南蛮とはポルトガルのことであり、南蛮寺とはキリスト教の教会のことである。
 キリスト教の生駒家から仏教信仰の松平家に天主の所有権が移ったあとも、天主から天守になって聖域として使われつづけた。天守の中には本来あるべきの鉄砲や刀などの武具のかわりに松平家が信仰した仏様が3千体祭られていた。天守撤去で行き場をうしなった仏様たちは頼重菩提寺の法縁寺に移されていまも保管されている。
 法縁寺は境内にあたらしく五重塔を建てた。頼重は倹約のために、多重塔は栗林公園の理平焼で満足していた。菩提寺に塔が完成するやいなや、歴史ある山門が配電盤老朽化が原因の出火で全焼している。
 
 1868年戊辰戦争のからみで、高松藩には土佐藩板垣退助を大将した官軍が、丸亀藩兵隊をともない高松城に攻め込んできた。
 官軍が城に向けて空砲の大砲や火縄銃の発射音を響かせると、防御のすべがない高松城は戦うことなく降参して、武士らしくない多額の賠償金を払うことで助けてもらう。
 高松藩からまんまと大金をせしめた板垣は、アメリカ南北戦争終結で処分にこまっていた大量の中古火器を買いつけて会津若松城にせめこんだ。お金で決着した高松とはうらはらに、高松藩と同じ葵紋徳川家康の血をつぐ会津藩では、少年白虎隊や女の八重さんまでもが武士らしく武器で最後まで戦っている。この史実も公園派ガイドが高松城跡を隠して、玉藻公園として運営したい理由のひとつである。
 高松市では玉藻公園来園者のカウントをふやすために、栗林公園や丸亀城跡公園に対抗して入園無料日を増やし、いろいろな集客イベントを催している。
 元丸亀藩鉄砲隊の空砲うちイベントは、高松藩の子孫にとっては屈辱のイベントである。 火縄銃発砲イベントをはじめた小西市長は、よそ者の丸亀藩出身であるために敗れた地元高松藩市民の心状が理解できていないのであろう。
 内堀で鯛つり大会が催されたときには、堀の主(ぬし)である大鯛がショックで死んだ。高松城にとってタイは龍神の化身とされている。

 天主入口門の角石にはお金をあらわす「分銅」と、稼いだお金をかくす血屋敷井戸の「ち・い」の刻印石がある。毬亜が天主に礼拝するときにこの城がつくられた目的を再確認するためのしるしである。
 田の字に置かれた礎石の口の部分は、回廊をささえた場所である。十字に配置された石は礎石ではなくて、祭壇の十字架である。太さ40㌢ほどの丸太4本の掘っ立柱は、祭壇をおおう天蓋(てんがい)をささえる化粧柱である。柱には龍神が巻きつく彫刻が彫りこまれていた。
 瀬戸内海の島々の海岸にころがっている億千万の石をあつめて、高松城の石垣はつくられた。2014年に復元された天主台の1階部分の内側壁には、築城当時のカキ殻やフジツボがのこっている。
 官兵衛はそれらの石の中からふたつの石をえらび、城が完成する最後に、天守祭壇の中央に据え置いた。
 十文字におかれた中央の石は、聖母マリアの姿をしている。どの石よりも女体のようにやわらかな形をしている。その石の腰のくびれには母体のへそがあり、処女でイエスキリストを産んだ股間の割れ目がある。
 聖母マリア石の東に置かれた石が、十字架で殺されて死んだイエスである。石には十字架のしるしがある。
 イエスの母とマグラダのマリアは、十字架にかかりもだえくるしみながら死んでいくイエスをみとどけている。その悲劇をピエタという。それぞれの教会のデザインや装飾には、聖書に書かれた福音をよみといた設計がなされている。
 バチカン市国サンピエトロ教会には、ミケランジェロが大理石で彫刻したピエタの像がある。官兵衛は高松城天主の1階に、十字架のようにならべた石の配置で、悲劇ピエタを表現しているのである。
 官兵衛は軍師であり、陰陽にもつうじていた。聖母マリア石の下には、高松を風水で守るためのしかけをほどこしていたのである。高松城は聖母マリアのやさしさと、風水のおそろしい龍神で守られるようにつくられているのである。 
 むかしむかしの讃岐香川県には極悪な龍神が日夜あばれまわっていて、住民はこまりはてていた。讃岐のカムロ神社でうまれた阿倍清明は龍神の首から逆鱗(げきりん)を抜き取ると、備前焼の小さな茶壷に押しこんで龍神の怒りをとじこめることに成功した。
 由緒ある濃茶肩つき茶つぼは高松城天主の聖母マリア石の下にうめられて、悪龍はさぬき高松をまもるやさしい龍神さまになったのである。  
 
 聖母マリアをまつる聖堂の祭壇は多くが東むきにある。日の出とともにステンドグラスからさしこむ光を、信者は西入口から参拝するようになっている。高松城天主の入口も、日本のランドマーク建築では珍しい西入口である。
 フランス・シャルトル大聖堂でみるように、聖母マリアの印は丸に十字である。イエズス会は聖母マリアをご神体にしている。キリシタン官兵衛の花押は、聖母マリアをあらわす「丸に十字架」のリングクルス紋である。
 姫路城「にの門」の軒先瓦には十字架がえがかれていることで、官兵衛ゆかりのお城の証明になっている。高松城天主台の入口の内側には、角石に官兵衛は丸に十字の花押紋を刻みこんでいる。この花押がつかわれたときにはローマ字でjyosui .simeonnとそえ字がされており、官兵衛が生涯キリスト教信者であったことがわかる。
 『軍師官兵衛』の最終回では妻初の背後にオリーブの木でできた大きな十字架がかざられていた。 
 本丸には2つの聞きなれない名前のやぐらがある。ちきゅう櫓とかねの櫓である。源内が毬亜に名前の由来を説明した。ちきゅうとは地球のことである。1階には中心の石を囲むように5個の石をならべて円をえがいている。かねのとは石工職人がつかう矩尺(かねじゃく)のことである。
 源内は隠れキリシタンでありフリーメイソンであったので、この2つのやぐらをつくり天主をまもる役目にした。キリスト教の秘宝をまもるフリーメイソンのエンブレムはコンパスと定規を交差させたデザインでできている。
 地久櫓は2015年高松市によって石垣の全面修復をしたが、工事では大切な5個組の十字石を紛失したり駅ホームの使用を優先して落石防止ネットをかけたりして、とても国指定城跡の復元とはいえない、ふつうの公園でするような修理をおこなっている。
 
 高松城天主教会が完成するとまもなく、朝鮮攻めの軍艦が大坂から到着した。艦隊のなかには織田信長が残した鉄甲安宅船3隻もふくまれていた。それぞれの軍艦に武具や食料などがつみこまれ出陣の用意がととのった。
 先頭の旗艦にのりこもうとする官兵衛との別れを悲しんだ毬亜は、こころをこめて自ら作った讃岐名物料理をごちそうする。赤色の讃岐うるし丼椀にもられた名物料理は、こしの強い釜あげうどんであった。 
 大坂からきた亀甲船に乗りこみ朝鮮に出撃しようとする官兵衛に、毬亜は讃岐名物のうどんをつくって別れをおしんだ。
 おいしいうどんを食べ干した官兵衛はからになった赤い漆椀のうどん鉢をしみじみながめると、愛する毬亜のかたみにと頭にかぶり、兜(かぶと)のかわりにしたのである。 
 戦国時代の武将の兜は、どれもが派手さをきそっていた。そのなかでどんぶり鉢は笑わせてくれるが、官兵衛と毬亜のただならぬ仲を知るものには理解ができる。
 知恵がはたらく官兵衛は、夫の生駒親正に毬亜との仲がばれないように「どんぶりかぶと」の言い訳を考えていた。どんぶり鉢の形は不死の力をえられる聖杯とおなじであるので、朝鮮で無事に戦うためにしかたなくかぶって行くのだと説明した。
 奇妙なうどん鉢をかぶとにかぶっていては、毬亜の夫生駒親正や勘のいい秀吉にふたりの仲がばれてしまう。そこで官兵衛はキリシタンであることを利用して、うどん鉢は不死の力をえられる聖杯であるという、かしこい言い訳をして不倫を後世までかくしとおすことに成功している。
   
 高松市公園課が維持管理してきた高松城跡は、少しでもすきまがあれば所かまわず雑種な樹木が植えられている。栗林公園に松が1500本あるなら、負けてなるかと松を植えまくる。櫓台の石垣はさながら植木鉢と化している。
 本丸中央には樹齢千年の楠木の巨木がそびえている。玉藻公園に育つ巨木は種から育てたのではない。公園にするために山野にある木を移植しただけである。
 海水の上につくられた夏には雨のふらない高松城では、飲み水をもとめて殺しあいもあったほどで、草木は乾燥で枯れるのみであった。
 しかし、本丸にいまも残るフジだけは毬亜が飲み水をがまんしてでも、水をたやさず育ててきたなつかしの木である。藤は官兵衛の家紋である。荒木村重の土牢にとじこめられて死を覚悟したときに、生きるのぞみを見出したのがフジの花であった。
 南蛮天主をつくってくれた愛する官兵衛をしのび、毬亜はゆかりの藤を棚にしてたいせつに育てたのである。 
 毬亜と源内は玉藻公園の西門から高松駅前広場に向かって出て行く。西門は玉藻公園の表玄関入口である。
 駅前広場には風水で使う羅盤が、カラータイルで描かれている。16の方位には龍神におそなえする16個の玉石が置かれている。
 高松駅と駅に隣接するホテルの壁面は、鬼門北東から浸入する邪気をさけるために曲面になっている。
このホテルは経営母体が旧国鉄である。ホテルのデザインは運気をあげる風水をとりこみ、龍神さまの怒りをかわないようにつくられている。
屋上ビアガーデンにはオールド高松を守ってくれる、龍神におそなえする玉とマリアの十字架がすえられている。
 となりに建つサヌキシンボルタワーの8階までのホール棟にも龍神のお供えであるリング状の玉がそなえられていて、風水にかなった設計になっている。ダメなのは鬼門に向いた9階から30階までの貸事務所棟である。建設中からオールド高松の家並みを狂わすとして評判が悪かった。
 駅前広場に立った毬亜と源内にとって、いまの玉藻公園はふたりがすごした高松城の跡には見えなかった。
 
 (<7不思議 その7>は血屋敷井戸のことである。くわしくは小説『源内コード』で)

 源内は豊臣秀吉が朝鮮出兵で奪ってきた朝鮮王朝の財宝を求めて、高松城内に300もある脱出井戸の全てを潜って調査している。ようやく5年目にして血屋敷井戸の底にある地下金庫にたどり着き、財宝をこっそり盗んで江戸行きへの資金にした。
 しかし、ただひとつだけ調査できなかった井戸があった。城内で一番りっぱな石囲いがほどこされた井戸である。どの井戸にも井戸口には簡単にはずせる竹のふたが置かれているが、この井戸だけには竹蓋の下にもうひとつ動かすことのできない一枚岩のふたがあった。
 源内は旧披雲閣の床下に隠されたこの井戸の秘密を、毬亜なら知っているだろうとたずねてみた。案のじょう、毬亜でなければ知らない秘密を源内は聞かされたのであった。
 海に浮かぶ海面すれすれの戦いようのない高松城では、敵に囲まれたときにはまず祈祷をする。「どうかお願いです。敵の軍艦を沈没させてください。敵の大将を死なせてください」と龍神に祈るのである。それでも城内に攻め込んできたら、脱出井戸から音をたてない水任流で身を隠すのである。しばらくすると大坂から、「いつもみついでくれてありがとう」と言って豊臣秀吉が助けにきてくれるのである。高松城は瀬戸内海を行く船を相手に稼ぐ商都城郭なのである。
 これは今の日本とアメリカの関係と同じである。一生懸命にアメリカのご機嫌をとっておけば、いざとなったらアメリカが助けてくれるのである。
 毬亜によると、この井戸の名前は「ちょうず井戸」ということである。少し離れた場所にある手水鉢(ちょうずばち)を回転させると、歯車とチェーンの伝動で石蓋が開くようになっているとのことである。さすがの天才源内も、軍師官兵衛が仕掛けたカラクリには気づかなかった。
 官兵衛も独自で考えたカラクリではなかった。キリスト教布教のために来た宣教師から、トルコのカッパドキアにある地下都市の技法を学んだからできたのである。
 源内が力ずくで手水鉢を押すと、打ず井戸の石蓋がきしみながら開いた。2人が井戸に入るとリフトで地下60㍍まで下降した。この井戸だけは海水が入らないようになっていて、リフトが下がると同時に手水鉢が逆回転して石蓋が閉まるようになっていた。
 地下の底に降り立った先には、迷路のような地下トンネルがめぐらされている。ひとつは瀬戸内海の海底30㍍下をくぐって、男木島の「ジイの洞窟」につながっている。2人はもうひとつのトンネルをつたって栗林公園にある「赤壁洞窟」へと進むことにした。


   第6章 税金投入による、高松中心地再開発事業のひずみ

 生駒親正には城づくりのアドバイザーとして黒田官兵衛がついていた。軍師官兵衛は高松の城と街を、結界で守るためにいろいろな仕掛けをしている。
 郷東川河口の干潟につくられた800㍍四方の高松城を北端中央に置いて、北東端は砂糖神社まで、北西端は郷憲寺までとした。南北の東端は千代橋まで、南西端は栗林公園までの3キロ㍍四方が結界の中にあるようにしている。この範囲が現在のオールド高松である。
 区画割りは方位を重視した、陰陽風水五行で守る平安京都の碁盤の目状の道割りをまねて造られている。家はどこに建てても南を向くようになる。
 京都御所の方位は北極星を基準にした地軸をもとにしているが、高松城は羅針盤の磁軸を基準にしているために南が3度西に傾いているのである。丸亀町商店街も磁軸にしたがっている。
 家康が京都に二条城を建てるときには、天海はあえて方位の基準を地軸から磁軸に変更したことで天下統一をはたしている。
 
 オールド高松の街の中心は、標高が一番高い13㍍の高松城天主台である。そして市民の動線の基点は、元城内にあるJR高松駅である。
 JR高松駅エントランス中央には人々を驚かせるものがある。高さが6㍍もあるデフォルメされた2体の人体像である。黒の男と赤い女が向き合って何やら大事そうに、胸の位置に四角い箱と円柱の箱をだきかかえている。タイトルは「DAITEMMAI」とある。
 高松市美術館のエントランスに置かれたナガレバチと、同じ彫刻作家の作品である。ナガレバチは小説『源内コード』の重要な装置として登場している。
 2体は生駒親正とその妻毬亜姫である。2人がオールド高松を守っている姿だ。抱いた四角い箱は朝鮮から奪ってきた財宝、円柱の箱はマグダラのマリアの棺をあらわしているのである。
高松中心市街地の四越百貨店の南側に片原町という商店街がある。ここはもと片側町と言われていた。丸亀町商店街のように通りの両脇にお店や人家があるのが両側町、一方にしかないのが片側町である。
兵器庫を意味する兵庫町が城外にあるのは、城下町づくりを黒田兵庫之助が企画したからである。
人口減少に伴う東京一極集中で衰退する地方都市の持続をはかるため、巨額の予算が組まれた。全国で市街地商店街の再開発事業が成功したのは高松市丸亀町商店街だけである。 
国から潤沢な予算が丸亀町に集中して落とされた。高松市は固定資産税の確保を狙い事業を進めたが、香川県は他の市や町に遠慮して事業を2年も遅らせた。
南北およそ500㍍の丸亀町商店街を北からAからFの6の区画に分け、A、B,Cの北3街区を東郷真知子設計事務所が、最南端のG街区を林ビル都市企画が担当した。 
G街区は愛称を丸亀町グリーンとなづけられている。G街区長は植町氏である。植町氏が設計コンサルタントを担う林ビル都市企画に注文したのは、中国上海新天地のにぎわいを高松にもたらして欲しいという注文だけだった。    

 林ビル都市企画はG街区のコンサルタントでもありながら地権者にもなっていた。高松市保健所跡地をとても安価に手に入れていた。
林ビル都市企画にとって植町氏の要望はたやすいことであった。上海に栓抜形ビルを建てていて、上海あたりの繁栄事情には精通していた。
G街区グリーンビル中央エントランスの構造は、エスカレータや回廊、たれ下がるツタ植物の配置などが上海博物館をそっくりパクッたような設計になっていると、上海からきた観光客は失笑している。
税金投入した高松市中心街区再開発事業での箱物づくりと、おもしろイベントの開催で商店街は賑わいを取り戻した。しかし大きな犠牲も払われた。箱物の下から出てきた遺跡をことごとく破壊した。
 丸亀町と兵庫町、片原町の3つの商店街がまじわる場所を3町ドーム広場と呼んでいる。頭上には全国の商店街で一番大きなガラスドームがすえられている。所有者は丸亀町でデザインの注文は「ミラノと同じ形のドーム」であった。出来あがってみるとドームの上には高台がついていた。デザイナー自身が何の理由で高台をつけたしたのか不思議がる形である。
 うどん鉢を逆さに伏せたような形のドームは黒田官兵衛の兜(かぶと)である。下部の半分には首を守るしころまで作られている。
 オールド高松の守護神である龍神が、デザイナーの頭に侵入してあやつったのである。官兵衛は高松を四神に守られた理想郷を設計した。あんのじょう高松は四国最大の都市になった。龍神はパラダイスを守るために手段をえらばない。風水に影響するランドマークづくりには竜神さまの繊細なチェックがはいるのである。

 昭和20年太平洋戦争の敗戦で日本はリセットした。復興のゼロ点は原子爆弾の炸裂である。原爆の象徴は二層に立ちのぼった白色きのこ雲である。
 丸亀町はさびれた商店街をゼロから復活かのように、復活のシンボルであるきのこ雲を新設アーケードのデザインにさいようした。
 店舗よりも高くすえたデザイン優先のアーケードは買い物客を快適に通すようにはできていない。透明ガラスをすきまをあけて重ねた屋根は、アーケード本来の目的である紫外線や雨風を防ぐことができていない。
 この雨漏りがする白色のアーケードは龍神の姿でもある。日没後にアーケードの下を歩けば設計の真意がわかる。照明のない暗黒のアーケードは龍神の胎内めぐりをして、パワーを得るための瞑想歩道となっているのである。
 田中はアーケードを見あげながら3町ドームから南へと歩みをすすめた。商店街最南端のG街区は丸亀町グリーンと呼ばれる区画である。
 「なにもかも無くなっているではないか!」古い亀井戸神社も、となりにあった市保健課の建物も取り壊されて、ホテル、マンション、店舗があわさった商店舗になりかわっていた。

 G街区の地下には亀井戸遺跡が存在していた。初代高松藩主松平頼重によって造られた、丸亀町商店街と高松城に命の真水を確保する井戸である。
亀井戸の水がなぜ霊泉と言われるようになったかは、亀井戸神社境内にある初代高松市長赤松渡の碑文に著わされている。現在もとの石碑はなくなり、特殊なガラス板になってしまっている。不吉なことに石碑は亀井戸神社移動のさい割ってしまった。そこで新しく碑文をコピーしたガラス板が採用された。
亀井の水はここから城下に張り巡らされた暗渠(あんきょ)によって東浜港へも運ばれた。そこから北前船などに積まれて北の海まで出かけるのだが、亀井の水は腐らなかった。数か月にも及ぶ長い航海にも堪えた。そこで霊泉と呼ばれるようになった。
 

   第7章 龍神がくだす、高松城遺跡破壊者へのおしおき

 オールド高松のなりたちは、城と3つの商店街から始まった城下町ある。3商店街とは城の玄関口にある丸亀町、兵庫、片原町の商店街である。
 高松の城下町は陰陽五行にもとずいて、3つの聖地を結ぶ結界で邪悪から守られている。3聖地とは東に弘法大師空海の屋島寺、西に武士神崇徳上皇の五色台、南には陰陽師阿倍清明誕生のカムロ神社である。
 讃岐の国を守る龍神さまが住む霊山は、栗林公園の借景になっている紫雲山である。ちなみに、日本を守る霊山は富士山である。
風水では龍神の動線を龍脈という。広島平和公園にもかかわった丹下健三が設計した香川県庁舎は、高松城を守る龍神さまが紫雲山と高松城間をパトロールで通りぬける道を確保するために、ホール棟を吹き抜けにして建築している。
 日本の龍はやさしい神様である。しかし、悪さをする者にはこわい悪龍に変身してこらしめることがある。スペイン・バレンシアやイギリス・ロンドンの龍のように市街を守る良龍も少しはいるが、ヨーロッパの龍は背中に羽があり口からは火を吹くこわい悪龍である。

この小説『天女と悪龍』が書かれるきっかけのショッキングな出来事が起こった。場所はA街区関連で東松建設が工事する四越百貨店所有地駐車場建設予定地から、高松城南端に掘られた恐ろしい井戸の遺跡が出現したのだ。
江戸時代に描かれた古地図にこの井戸は「血屋敷井戸」と記されている。高松市の文化財課は現地説明会を3日間にわたって催した。歴史好き市民およそ800人が見学したが、解説する市学芸員は血屋敷の名前をかくして大型井戸の名で説明した。

もう一つの歴史的遺跡発見はその2年後のG街区再開発工事からであった。それが亀井戸であった。
亀井戸遺跡は高松市が所有する鍛冶屋町分庁舎の地下からでてきた。分庁舎は環境汚染を監視する市衛生課分署がつかっていた。民間事業のため高松市は所有地を処分しなければならなくなった。市有地買収予定の林ビル都市企画にとって、土地利用を拘束する遺跡は極めて邪魔な存在になった。
都市再開発法による権利変換で、林ビル都市企画に土地を買ってもらいたい高松市は悩んだ。そしてとんでもないことを思いつくのだった。
それは土壌汚染による敷地全体の土砂の総入れ替えであった。ボイラー配管から重油の漏れがあることにして、汚染した土石はすべて清浄なものに入れ替えて林ビル都市企画に渡すのが市の責務であるとした。
市民に売却益を約束していたもくろみは、市が負担する土石処理費で利益のほとんどを失い、市財産の土地は林ビル都市企画に譲渡された。このことは地元新聞にも掲載された。
そもそも汚染を監視し、指導するのが市保健所の役割ではないのか。当局の足元で長年にわたり異臭を放つ重油が漏れ出していたというのは、にわかに信じられる話ではない。 
しかも土壌の入れ替え工法は、亀井戸遺跡の完全破壊である。次の世代に渡す貴重な観光資源である、歴史遺産を高松市は自らの手で葬ったのである。

このとき遺跡の土壌汚染を知ったインド系環境産業企業が高松市を訪れ、遺跡保存ができる安全で安あがりなバイオ処理技術の提案をしていた。
重油汚染の重油は自然産物である。岡山県側の三菱石油が重油漏えいで瀬戸内海対岸の香川県側沿岸を油まみれにしたとき、識者はテレビで100年たっても香川の海岸はきれいにもどらないと解説していたが、重油は自然の治癒力でたった一年で汚染は消えた。
高松市はバイオ処理の提案を門前払いしている。土地売却の障害になる亀井戸の遺跡を、土壌いれかえで根こそぎ消し去ってしまいたいためである。
亀井戸遺跡の抹殺を急いだ市は猛暑渇水の中で現地説明会を、たった一日で終わらせると早々に翌日から遺跡破壊工事がはじまった。
 
  <お仕置その1 平成16年台風16号>
 20世紀末に四国と本州を結ぶ3本の大橋がかかり、国鉄連絡船だよりの高松は四国の玄関としての地位を失いかけた。玄関を維持するために連絡船発着港湾を埋め立ててサンポート区を造った。広さは栗林公園、玉藻城と同等である。風水では移動に使う場所は古道の駅舎のように、人員をとどめないように不安定な北東の方角に向けてつくられる。人が暮らす場所には町名がつけられるが、サンポートは町がつかない区域である。
 県が売却利益をもくろんだ連絡船桟橋跡の広大な埋立地は、風水が悪いからと購入する民間企業はどこもあらわれず、すみっこに3棟の役所関連棟が建つだけである。
 
 連絡船の廃止で衰退する玄関都市の繁栄を維持するために、中心市街地再開発事業が開始された。そのひとつとして、県主導の四国で一番高いサヌキシンボルタワーが平成16年に竣工した。
 連絡船で船上さぬきうどんを食べながら、本州から四国にやって来るお客を歓迎するシンボルが、高松港周辺に立ち並ぶ細高い広告看板であった。「森永ミルクキャラメル」とか「マツダランプ」といった高層広告塔をイメージして、県副知事の意向をくんで29階からさらに1階一億円を追加した30階建て四国一番のタワー棟が完成した。
 鬼門の北東に向けて建てた場所は、屋島寺と五色台との結界線上である。タワービルの最上階には、鬼さんはこちらから入ってちょうだいと言わんばかりの凱旋門がすえられている。
 築城からしばらく平穏をたもっていたオールド高松は、この年から龍神が悪霊となったかのように、呪いの不吉なできごとが次々とおきるのであった。
 シンボルタワーが竣工した平成16年の夏、超大型台風16号が高松を直撃して鯛が災難にあう。瀬戸内海とつながる玉藻公園の内堀は高潮であふれ出し、オールド高松を海水攻めにした。あふれる堀から脱走した多くの鯛は商店街アーケード下で釣られ、刺身となっておいしく食われてしまった。
 サンポート周辺の海岸線を、高松城を見ながら泳ぐというイベントがあった。市長の警護で伴泳していたベテランスイーマーが、おぼれて亡くなった。
 サンポートを会場にしたトライアスロンレースでは参加選手がおぼれて亡くなり、主催者経営の店舗に暴走車がとびこんだ。
 
  <お仕置その2 血屋敷井戸の破壊>
 世界でいちばん恐ろしい名前の井戸は高松城の「血屋敷井戸」である。にたような恐ろしい名前の「皿屋敷井戸」が官兵衛ゆかりの姫路城にもある。
ネット系「百科事典うきぺぢア」ですら、皿屋敷井戸より恐ろしい井戸はこの世に存在しませんからとの複数クレームにより、一度は掲載されたページが削除されてしまったいわくつきの井戸である。
 血屋敷井戸破壊の祟(たた)りが起こってしまった。四越百貨店は売上不振になり、高松四越高松支店は分社化された。黒字を出さねばそっこく高松から撤退ということである。経費節減のため大型リストラをおこなった。パリとロンドンの海外支店も販売不振で閉鎖された。

 遺跡保存を叫ばなかった関係者に、つぎつぎと異変がおきた。
 血屋敷井戸遺跡の破壊を防げなかったしおりは、たたりが心配になりしばらくぶりに人間ドックを受けた。結果は子宮体ガンであった。グレードは最悪の9であったが発見が早くレベル2であったため、全摘出手術で完治した。3ヶ月発見が遅ければ、全身転移で助からないところであった。
 高松城の水源井戸の歴史を、町歩きで観光案内していたしおりの知人ガイドが、自宅でジーパンのはきかえ中に転倒して、股骨を折りクロスリング病院に入院した。
血屋敷井戸を破壊して自走式駐車場を建設工事した、東松建設社長が不正政治献金贈賄の疑いで逮捕されたのもこのころである。逮捕危機一髪の収賄側とされた大沢議員は、大沢いのちと応援する血屋敷井戸復元メンバーのおかげで無罪になった。
生駒親正と奥様の墓がある菩提寺、郷憲寺住職の子息が白血病になった。住職は血屋敷井戸復元の起工式で悪霊の厄払いをした。すると親子の骨髄が一致して移植は成功した。
丸亀町商店街の役員で血屋敷井戸の発見を迷惑がった大川時計店は、井戸遺跡を破壊した後まもまくして倒産した。
 丸亀町A街区ビル工事中のクレーン作業で、吊り下げられた足場鉄パイプがワイヤーから滑り落ち、となりのメインバンク讃岐銀行の営業車運転席に突き刺ささる。落下が30分遅ければ、朝礼を終えて軽四車に乗り込んだ行員の命はなかった。
さらにコンクリート圧送車のホースが破裂して、商店街を歩く買い物客に生コンが浴びせられた。被害にあった弁護士はしっかりと弁償してもらったが、まだまだ世間を知らない多くの若者はクレームが言えずに泣き寝入りをするだけであった。
 経験したことのない事故の頻発に東松建設と丸亀町組合はすっかりおびえ切ってしまった。 
 丸亀町商店街再開発事業は商店地主が税金をもらって行う公共事業である。公共事業によって国民の財産である歴史遺産の破壊があってはならない。納税者は高松城遺跡をきびしく監視する責任がある。

 丸亀町新川組合長と足立部長、それに郷土の歴史を愛する香西しおりは、城をまもる龍神のたたりをしずめる方法は血屋敷井戸を復元するしかないと確信するのであった。
 新川組合長の父親は丸亀町を四国一番の繁栄する商店街にした立役者である。85歳で突然死した。ちまたでは血屋敷井戸を破壊したたたりだとうわさされたが、それはちがう。彼ほど最高の極楽往生をした人はいないのである。豪華客船100日間世界一周のクルージングツアー中に、ほぼ一周を終えたインド洋沖で苦しむことなく亡くなった。
死亡通知の電話を受けた新川組合長はあわてたが、父が旅行保険に加入していたおかげで、残された家族にはいっさいの迷惑がかからなかった。ヒンズー教式の火葬はおごそかに行われ、思いがけず家族4人で迎えのインド旅行ができたことに感謝したほどである。 
長寿命時代にあっては子供に介護の迷惑をかけずに死ねるのは、親として最高の死に方である。さらに多額の死亡保険金を残してやれば「親孝行」ならぬ「こども孝行」は文句なしである。
 うどん屋店主足立の弟は血屋敷井戸が破壊された当時には、地元新聞社の文化部長をしていた。豊島産廃処理問題のおりにはコラムを連発で書いて解決に導いたらつわん記者である。
 兄が進めている丸亀町中心市街地再開発事業にはばかって、発掘された「血屋敷井戸」と「亀井戸」の保存を弟は一文字も新聞記事にしなかった。
 破壊された井戸にはそれぞれの龍神がやどっている。龍神は足立の弟に呪いをかけた。社内の健康診断で弟は突然悪性の前立腺ガンを宣告された。クロスリング病院でのマーカー診断では、ガンがリンパにまで転移した最悪のレベル4まで達しており、助かるためには開腹の手術をするしかないと告げられた。
 やり残した仕事を引き継ぐ人々と水杯をかわして臨んだ大手術は、メスで腹を切り裂く開腹手術である。
 まるで武士が罪を清算する切腹のように切り開くやいなや、開腹口にあらわれた龍神によって全身に転移したがんが奇跡のように治ったのであった。ガンの手術は開腹しただけで全治した。通常ならば大病院の誤診医療ミスになるところであるが、都市伝説はあるのである。
血屋敷井戸を兄が壊す罪とそれをとがめない弟の罪を、信心深い父親が生駒親正とその姫さまに謝罪したから切腹ですべてのガンが治ったのである。
足立家の菩提寺は郷憲寺とは別のお寺であったが、兄が丸亀町再開発事業に着手する直前に龍神に導かれて菩提寺を移した。
墓石の配置は足立家子孫が先祖を拝むときに、その先にある生駒親正と毬亜の墓石方向に向かって参拝するような仕掛けになっている。墓におさめられた骨壷も生駒の墓を向いている。

 破壊されたおそろしい井戸はもとどおり四越百貨店敷地内へ、丸亀町商店街の資金としおりのアドバイスで復元された。復元はおどろくべき好結果を関係者にもたらした。
 破壊で廃棄されていたはずの井戸構成石は、老舗石材店「二好石材」が大切に保管して守ってくれていたのであった。
復元され血屋敷井戸は香川一番の最強パワースポットとなり、世界の観光客がおしよせるようになった。
 血屋敷井戸遺跡復元に協力した四越百貨店はおかげで、ライバル百貨店がとつぜん高松から撤退し、売り上げは急回復した。

  <お仕置その3 亀井戸の破壊>
血屋敷井戸の復元でとりあえずたたりはおさまったが、2年後に再び亀井戸遺跡破壊によるおそろしい呪(のろ)がはじまった。
 丸亀町F地区(グリーン地区)の地権者たちは亀井戸遺跡発掘にそなえて、林ビル企画社指導で、遺跡保存で頓挫したヨーロッパ各地の商店街を視察していた。
 林ビル企画社は東京で大規模な再開発事業を成功させてきた。地権者にとって迷惑千万な遺跡を消し去るテクニックにはたけている。
 そこで亀井戸神社御神木である夫婦楠2本を、移植にコストがかかるからとバッサリ切り倒してしまった。
 初代高松市長赤松渡の墨跡の顕彰碑石をクレーンで慎重に引き上げたが、ふきつなことに作業途中で石碑が真二つに割れてしまった。
 生命の水が湧く井戸を破壊したるものには、子々孫々まで呪われ、祟(たた)りがあるというのが日本の信仰である。映画『ダヴィンチ・コード』でもラングドン教授が落ちた井戸はキーワードになっている。

 亀井戸遺跡破壊とあい前後して亡くなったかたがたの、死因が奇怪である。
 G街区グリーンの完成直前に、地権者井戸瀬電器社長が入院するほどではない自転車転倒自損事故をおこした。それから3日目、念のためにとクロスリング病院で診察をうけると心不全で死んだ。
 クロスリング病院入口頭上には、高松城刻印石丸と同じ丸に十字のデザインがかざられている。
G街区建物の設計者であり高松市保健所跡地を購入したG街区地権者でもある林ビル企画会長が前立腺がん治療後の順調な回復のさなか、グリーン竣工のひと月前にして不可解な心不全で謎の死をとげている。
心不全とは心臓が止まって死ぬことの医学用語で、死因が分からない死亡のことである。
 さらにスナックでG街区工事請負ゼネコン尾田建設の山上営業主任が酒をのみながら、丸亀町ABC区商店街組合責任者足立部長とアーケード新設工事費の入札金額増減に関して電話やり取りしたあと、わずか30分後にクロス病院にはこばれ心不全で死をとげたとの知らせがはいった。血屋敷井戸破壊後のたたりを耳にしていた尾田建設はグリーン営業担当者の突然死におびえ、丸亀町再開発事業から撤退をきめた。あとの工事は別の建設会社が引き継いだ。

役所の文化財課は遺跡の調査が仕事である。遺跡を未来に残すのは観光課の仕事である。
亀井戸の保存を市や県の文化財課に期待するのは無理だとさとったしおりは、讃岐高校の先輩である県観光課長の奈津に最後の期待をたくした。奈津は歴史派人間で、こよなく栗林公園を愛していた。しかし、しおりへの返答は亀井戸は高松市の縄張りなので、県としてはどうしようもないということであった。
 おそろしいことに、遺跡を保存して観光資源にするべき責任者である県の奈津観光課長が、山上主任と相前後するように暑い8月14日の夜、高松祭で楽しく踊ったあと県庁観光課の更衣室で着替え中に突然たおれた。急いで県庁となりのクロスリング病院で手当てを受けたが死亡が確認された。
水で苦労する香川県にとっては、江戸時代の水道遺跡を保存する義務があるのではないだろうか。香川用水には立派な資料館がある。現役の水道課長が奈津のあとを追うようにして亡くなった。
 ことごとく破壊された亀井戸遺跡ではあったが、血屋敷井戸からかかわった市文化財課藤見課長は、自らの名が官兵衛のフジとつながる因縁もあり祟りを恐れて、亀井戸遺跡の一部を廃校になった小学校跡地に再現した。市職員としては精一杯の努力である。まもなくして龍神は、官兵衛と同じように引きずる藤見課長の、不自由な片足を健常にもどしたのである。
 
 戦国時代にあって日本で唯一の、戦うことを放棄してつくられた高松城は、祈りで敵を撃退するため祈祷所を数多く設営した。やぐらのすべては祈祷所である。その中心が天主・天守であり龍櫓(りゅうやぐら)である。その祈祷(きとう)の効果ばつぐんであった。
 1945(昭和20)年太平洋戦争終盤のころ、敗戦濃厚になった日本軍は自爆特攻作戦に望みをたくした。
 対戦相手のアメリカは一億総特攻になった日本を根こそぎふきとばすべく、原爆の開発をすすめていた。このとき日本は偏西風を利用して、コンニャクのりで補強した紙風船爆弾を飛ばしてアメリカ全土を焼き払おうとした。上陸するアメリカ兵には婦女子が竹やりで迎え撃つかまえでいた。
 万策つきて神にもすがる大本営は、祈祷信仰のあつい高松城の龍神さまに勝利をたくした。高松城の龍櫓ではアメリカ敵大将をのろい殺す祈祷が昼夜おこなわれた。
 効果はばつぐんで龍神は悪龍となってルーズベルト大統領の脳内に飛び込み、血管をかみちぎって殺してしまった。
 高松の祈祷に怒った副大統領トルーマンは昭和20年7月4日の真夜中、オールド高松をB29で空襲してオールド高松を壊滅させ2000人が焼け死んだ。龍神伝説を信じる人は高松城跡に逃げ込み助かった。 堀の海水を抜いて掘られた防空壕に逃げ込んだ市民は、龍神さまにまもられて全員が助かっている。
 高松城跡では桜御門が焼夷弾で焼けおちたが、残りはしかりと龍神さまがまもってくれている。門が燃えるとき龍神さまは城跡の上に雲をおおいかぶせて豪雨をふらせ、消火をした。桜御門の石垣には、熱せられて冷やされたときの亀裂がはいっている。この石垣は高松空襲の貴重な歴史遺産である。オールド高松の歴史を未来につたえる生き証人である。

讃岐電鉄築港駅プラットホームは高松城の内堀をうめて、本丸石垣の上につくられている。国史跡の本丸を手荒く工作して電車を乗りつけるのは、日本中でただここだけである。
本丸は干潟の地盤沈下からまもるために内堀でかこまれていた。内堀のいっかくを駅で埋めたために、大地震にも耐えてきた天主台がきしんだのである。沼の上にできたアンコールワット遺跡は全周の水堀があるおかげで、地盤沈下を受けずに水平をたもっているのである。
 本丸ホームの荒工作は、讃電の破綻であるをまねいた。デパートを誘致した絶頂期に讃岐電鉄は倒産したのである。中堀にそって走らす線路の高架計画も破綻した。城前の築港駅はいつまでも仮設舎のままである。讃岐大学石原教授お墨付きの新都市計画は順調に進むように思えたが龍神の怒りで頓挫することになった。

  <お仕置その4 南蛮天主台の解体>
 ちかごろ丸亀町商店街理事長をトップにすえた、「高松城天守閣」の復元運動が活発におこなわれている。商店街再開発事業の重点項目に、集客の目玉として城のシンボル復元をめざしている。
 街がにぎわうためなら、そして税金で建ててもらえるならば歴史的にいい加減な建物でもO.Kとしている。
 敗戦のどさくさで意気消沈した日本国民を元気づけるには、天守の復元がいちばんであった。昭和30年代に大坂城や名古屋城などが、エレベーターつきの近代工法で天守が復元されて天守閣になった。いまでは天守閣は世界中から人をあつめる、観光産業の中核になっている。
 高松城跡を管理する高松市は公園派の意向をうけて、高松城天主を大坂城天守閣次元での復元をめざしている。
 しかし、文化レベルが上がった現在では文化庁は忠実な城遺跡復元を求めていて、史実ににそった資料をそろえなければ高松城天主の復元はできないようになっている。似たようなどこかの城の天守をまねて造れるというものではない。 
公園派が熱望する「天守閣」の復元ありきで、高松市は平成16年に高松城跡に残る石垣の安全調査をおこなった。最も崩壊の危険性が高いのが天守台だということにした。
県歴史学芸員の恵比寿氏は県と市の高松城と栗林公園をめぐる縄張り争いにいやけして、血屋敷井戸のレポートを県なりに報告したのを最後に、愛媛大学の准教授に転身し香川県からはなれていった。

高松城天守台解体復元工事を請け負ったのはアサマ建設である。会社の紋章は天主入口門の刻印石と同じ分銅紋である。
全面解体した天主台の復元工事が終わるやいなや、なぜかアサマ建設の社名が高頭アサマ建設にかわってしまった。
高松城石垣の要所には悪霊からお城を守るため16か所に結界石がしかけられている。
ありきたりの城にある刻印石は、石垣を工事した大名の足跡である。
 が、高松城の刻印石は石垣の角かどに悪霊払いの祈祷目的で刻まれている。軍師官兵衛が設計してつくった理想郷の高松城を、千年先まで守るため龍神に守らせた刻印石である。刻印石を動かすものは結界を破壊するやからであり、龍神の攻撃をうけるのである。刻印は石の裏に彫られていて、表からは見えない場所にある。
天主台の生駒紋刻印石を動かした責任者は、盆休みで帰郷した高知県で、自ら運転するトラクターが転倒して圧死した。この事故はなぜか香川県内のテレビ新聞で報道された。
進駐軍の大蔵省関連工事中に事故がつづいた、平将門の首塚の話とよくにている。信心深いお城派のひとたちは、江戸城の話を高松城にかさねて身震いしたのであった。
アサマ建設が高松城天守閣復元に異常なほど取り組んだのにはわけがある。アサマ建設社長は郷土出身の臣条純次だった。四国一番の進学校讃岐高校を昭和43年に卒業した団塊世代の、地元を代表する超エリートである。
 アサマ建設は愛媛県大洲城天守を近年の文部省規制がきびしくなったなかで、本格木造で天守を復元した唯一の大手ゼネコンである。
 昭和30年代ならば大坂城のように鉄筋コンクリートエレベーターつきの天守閣も造れたのであるが、公園派がぎゅうじる高松城跡では、戦後あふれるように生まれた団塊世代の子供を商売相手にして遊園地化した。江戸時代の貴重な建物をつぎつぎとこわして、お城復元のチャンスをのがしてしまった。
 子供数が減ると遊園具は撤去され、かわりに木々が植えられ森のような公園になった。
 臣条はふるさと高松に錦(にしき)をかざるべく、高松城天守閣復元に全力をそそいだ。天主閣の復元には耐震基準法をクリアした石垣でないと、うわ物はつくれない。古い石垣は根こそぎ破壊して、耐震補強をしたうえで積みなおさなければならない。高松城跡は国指定史跡である。石垣を動かすには文化庁の許可が必要である。
 アサマ建設は天守閣復元ありきで、がむしゃらに天主台改修をおこなった。工事費は7億円かかり、税金で高松市と国が折半した。部外者の香川県はノータッチである。
臣条氏は石垣撤去工事のさなか脳腫瘍をわずらい、復元された天守閣を見ずして2014年の新年早々に亡くなった。

 国史跡に指定された高松城天主台の解体には文化庁の許可がいる。許可後の工事を監視するのが東昭夫顧問である。
2009年11月24日、讃岐商工会議所に有志150人が集まり天守閣復元にむけた募金活動を開始しようとした。決起式の記念講演によばれた東お城顧問は、天主台改修工事の方法にまったをかけた。
 「高松城天主台の石垣は日本のお城の中で一番美しい野面積みです。ほとんど無傷で残っていた大切な石垣を、いいかげんな天守閣復元を前提にした耐震構造に対応するために、石垣を根こぞき破壊するとはなんたる恥さらしな工事をしたのですか。じゅうぶんな天主の資料が無いままでは、私がぜったいに天主復元はさせませんよ。高松城南蛮天主の復元は、史実にもとづいた復原でなければならないのです」と怒りの声をあげた。
 思いもよらぬ東氏の講演に、募金活動をはじめようとした天守閣復元推進会長は凍りついた。会場でくばられていた募金協力依頼文書はあわてて回収された。
 天守閣復元を中止させた東顧問は聴講者の困惑した顔色をさっしたのか、代案として「桜御門なら復元してもいいですよ」とつけくわえた。東顧問はよそものであったために桜御門の嘆きの壁に残された、焼けて亀裂した石の大切な意味を知らなかった。
 7億円もかけて石垣を解体して天守閣復元はできませんよでは、高松市民が怒る。まもなく放送されるNHK大河ドラマは、高松城を設計した「軍師官兵衛」である。主役は人気俳優v6の岡田准一である。石垣解体工事は天守台に安全に登頂してもらうためにした工事であると、丸亀市出身よそもの小西市長がひきいる高松市はもっともらしく説明している。 
 オールド高松の歴史遺産が次々と破壊された期間に高松市長になった、小西市長は国家公務員をやめて無投票で当選した落下傘市長である。小西市長の出身地は幕末に高松藩と敵対した丸亀藩であったため、高松の貴重な遺跡に執着がなかったのであろう。小西市長が高松を治世中に、禁断の血屋敷井戸遺跡と亀井戸遺跡、そして天主台と桜御門なげきの壁が容赦なくこわされた。

 東氏の怒りで公園派がもくろんだ天守閣復元は全面ストップした。あわてた高松市は石垣解体工事を正当化するために、見学用の登り階段回廊を設置した。天守閣復元が絶望的になったので、手すりは長持ちするステンレスで作られている。
黒田官兵衛が築いた天主台の完全解体を許可したのは、文化庁部長級の武蔵高史である。国史跡の玉藻公園に手を加えるには文化庁実務トップである武蔵の承認印がいる。武蔵は天守と天主の違いを理解していたが、臣条の熱意に負けて天主台解体を許可した。
解体前の予想では、石垣の水平をキープする胴木と松くい300本がすえられていると思われていた。ところが、いざ解体してみると木材は一本も使用されておらず、石垣は砂上に直接かさねられていた。なんの地盤沈下対策もされていない石垣が、400年間ものあいだ天主をささえていた。
石垣の砂の下から出てきたのは、竜神にささげる8人の人柱の骨であった。高松市が作成した発掘記録では骨の人数は6人分、旧寺社の墓地からこぼれたものとしている
しかし、現場は郷東川の河口干潟である。川のおそろしさを知るしおりには、この記録もまた血屋敷井戸とおなじ、歴史の不都合をかくそうとする市の体質と思えるのである。かつて市は厳粛な選挙でも、0票で隠そうとしたことがあった。

2014年3月20日の深夜。高松城を守る龍神さまが怒り、武蔵に最大の惨事がおきた。武蔵は定年退職を10日後にひかえて、送別会帰りのほろ酔い気分で終電間近の山手線をまっていた新橋駅ホームから転落して、自力でホームに上がろうとへその位置まではいあがったところに外回り線の列車が突入してきた。
文化庁部長級悲劇の報道は全国テレビや新聞で報道され、裏ネットでは怨念がらみのうわさが流された。東京ネタでは平将門のたたりだとカキコされていた。
交通事故死の中で電車事故は最悪の死にかたである。歩行者が交通事故で死んだら8割の過失があっても、自賠責保険で3千万円が遺族に支払われる。
電車をとめたら認知症者であっても、遺族に損害賠償の請求書が届く。酔いどれサラリーマンの聖地新橋駅で山手線で死んだら、どれほど巨額の請求書が遺族に届けられたことであろうか。請求は相手を見ながら算定されるが、国家公務員トップクラスといえども山手線を止めたら億単位の金額が遺族に請求されたであろうことは想像できる。

  <お仕置その5 江戸を守る結界石>
 高松城と同じように陰陽五行と風水で守りをかためたお城が江戸城である。
 2020年オリンピック開催地をトルコの観光都市イスタンブールから東京に奪いとった張本人が早瀬都知事である。トルコはイスラム圏初めてをスローガンにしていたが、日本は3回目をめざした立候補である。
 
 トルコは映画『海難1890』で知るように、世界的にめずらしい親日国である。オリンピック開催地はイスタンブールにゆずるべきだった。
 東京がオリンピックをやりたいなら、福島原発被害をかたずけてからやれと、家康は天上からおこっているのである。
 東京オリンピック誘致の張本人は愛妻の死に目によりそえず、東京の裏側ブエノスアイレスで狂喜のバンザイをし、はやばやと都知事を辞任した。いいだしっぺ岩原前東京都知事は人生最後の選挙で落選した。メイン会場国立競技場の設計がとんざする。エンブレムデザイナーは評判が地に落ちる。
 これらのできごとは家康のしわざである、と信じるか信じないかは読者しだいです。

東京は徳川家康が高松城にもまさる、結界を張りめぐらせた江戸城の築かれた要衝である。方位の要には結界石がすえられている。結界をこわす者にはきびしい罰が下る。
 徳川家康は天皇陛下の下で日本をおさめる将軍である。つまり総理大臣のような役職である。家康は死後も北極星の東照宮から、日本をみまもっている。
 結界を破壊したお仕置きは、ピークのときにやってくる。豊臣秀吉が方広寺大仏を完成さた絶頂のとき、大地震が襲い世界一の巨大大仏は崩壊した。
 東京のピークは3回目東京オリンピックの開催成功でおとずれる。興奮がおさまるや否や天罰がくだる。次の関東大地震での災害は耐震対策の充実でたいしたことなくやり過ごせるが、富士山大爆発で東京は壊滅する。
 延々と噴出する火山灰がふりそそぐ東京は人間の住める場所ではなくなる。歴史はプレイバックするように、天皇陛下は東京から京都におもどりされる。

 しおりは血屋敷井戸の復元を手伝ってガンから命が助かっていた。呪いがかった亀井戸に関わる人々が次々と悲惨な事故にあうのを見ていて、もしかしてしおり自身も亀井戸遺跡の破壊をくい止めなかったために、ふたたびたたりが来ているのではないかと思うようになった。
 田中に相談すると、田中は全身にへンナの刺青で聖母マリアの十字架に巻きつく悪龍の図柄を描くことをすすめた。
 しおりの左乳房をドラゴンボールにみたて、龍の爪が乳房をわしづかみにする絵柄に着色していたとき、田中の指がしおりのピンクの乳頭のまわりにほんの少しできた、クボミの異常に気づいた。
 しおりは悪性の乳がんを発症していたのである。グレードは最悪の9であったが、発見が早かったのでステージは2であった。クロスリング病院で手術を受け、今回も手遅れにならずにすんだ。もしも発見が3ヶ月遅ければがんはリンパに転移して、地獄の苦しみもだえで死んだはずである。しおりの高松城の遺跡を復元しようとする姿勢が、龍神に伝わり助けられたのであった。
 オールド高松を守る龍神は、相手の行動にあわせて神にもなり悪魔にもなるのである。
 

   第8章 高松にだけ民地河川堤防があるのは、源内の悪知恵だった

 香西しおりのご先祖は江戸時代から田んぼを6町歩所有する中堅地主であった。昭和20年の敗戦で進駐してきたアメリカ軍GHQの命令をうけて、政府は日本国家の脆弱をはかるため財閥解体と農地解放をした。香西家の田んぼはすべて超激安地価で小作人に買いとられた。農地は5反単位で零細化し、日本の農業は国際競争力を完全に失った。のちに政府は強制的に農地をとりあげた政策を反省して、なみだばかりの10年国債を元地主に発行している。
 農地解放された地目は田と畑である。香川に広大な面積がある塩田は開放からまぬがれている。

 香西家に残った土地は、田んぼの地先にあった春日川左岸堤防の600坪だけであった。
堤防の上には見張り小屋の2軒を建ていた。
 しおりの祖母が所有する堤防は、祖母が死に母が死ねば、いやおうなしに一人っ子のしおりが相続しなけらばならない土地である。
 しおりは表具店のバイト経験で古文書を読む能力を身に着いた。「古文書は習うより慣れろ」という。たくさんの文献に接しているしおりはまさに慣れて解読できるようになった。しおりはその中で気になる古文書にであった。それは高松市内最大河川である春日川の、しおりの香西家がもつ堤防地の所有権移動の顛末である。
江戸時代の古文書には、春日川干潟に河川堤防を築き田畑を開墾してきた高松藩の苦労が書かれていた。
石を積みあげただけの堤防は台風のたびに決壊し、瀬戸内海と接する香西家の田んぼに海水が襲い稲を枯らす。伊能忠敬は讃岐の海岸線を測量するときに、瀬戸内海と接する香西家の河口堤防北端を検測している。その後地先に塩田ができると、まきあがった塩がふりそそぎ稲がかれる。海ぞいに持つ田んぼ面積のわりに収穫が少なく、古文書の長者番付に香西家の名前がでてこないのはそのためである。しかし、藩の年貢のとりたてはきびしく、小作人が飢え死にしないように守ってやらなければならなかった。
大昔から日本の堤防は防災のために、所轄する役所が所有権を持って管理している。ところが、堤防の半分の土地を民間人に払い下げてさせて管理費を倹約したのが高松藩であった。
お米の収穫直前にはたびたび台風がやってくる。河川堤防で干潟を囲い開墾した田んぼだらけの高松藩は、毎年の巨額な堤防修復費捻出に頭をかかえていた。とくに高松藩五代目松平頼恭(よりたか)の時代には堤防決壊の被害が大きかった。
 頼恭は水戸徳川家から突然の養子縁組で高松松平家の殿さまとして就任したばかりで、高松の右も左もわからず頼れる部下がいなかった。
 このとき頼恭にまんまとすり寄ってきたのが、日本のダヴィンチこと平賀源内である。香西家にとっては迷惑千万な讃岐香川の超有名人である。
 香川の有名人5名をあげよと言われれば、だんとつ1位は弘法大師空海である。2位は奇人変人の平賀源内。悲しいかな3位4位がいない。5位はうどん県副知事の要潤である。

 高松藩は河川堤防修復事業から手をひくため、どこの他藩もやっていない禁じ手をつかった。禁じ手は平賀源内が提案した悪知恵である。堤防地先に田んぼを所有する地主に堤防を強制的に売リつけて、堤防がこわれたら復元修理を負わせ、被災小作には弁償をさせた。さらに海岸と接する香西家には堤頂に台風の監視小屋を設けさせた。
 国土を守る堤防を民間に売り渡すといった、こんな珍妙な治世は日本中どこを探してもない。このやり方を発案したのが平賀源内である。高松藩にとっては廃藩置県になるまでの間、大いに助かる政策であった。
 水害被害の補償と修理費を藩から民に移すことで、藩の財政を救う道をつくった平賀源内は松平頼恭のお気に入りとなり、身分最下位の城外足軽から順調に出世して城内を自由に出入りすることが許された。
ところが高松藩の河川堤防珍制度を引き継いだ香川県は、のちに困り果てることになる。昭和の経済成長期になり、全国に道路整備が進み春日川には昭和44年に国道11号線北バイパスができ、新春日川橋が香西家の堤防の上に架けられた。
 国道番号の2桁台は国の管理、つまり1から99号線までは建設省、いまの国土交通省の直轄になっている。国道11号線のバイパス新設には、用地の買収から建設管理までも国が行うことになる。高松藩がかかわった二級河川の堤防敷地の半分が民間所有の土地であることを知る由もない国は、土地所有者である香西家から用地の買収をしないで、県河川課の承諾を得ただけで新春日川橋を工事した。
国は建設省の出先を高松市に置いたとき、一級河川を高松藩の春日川にするか、丸亀藩の土器川にするかで悩んだすえ、河川流域の広さで土器川を選んだ。京極家の丸亀藩は堤防を民間に売りつけては無く、国は香川の特異性を知ることがなかった。
 国としては堤防が民地であるはずはなく、建設用地買収などあってはならないことであった。
工事の着工を知ったしおりの祖母は地権者として国と県に抗議した。だが国は河川管理者である県の建設許可を得ていると言って取り合わなかった。そればかりかどこも祖母の抗議をきちがいあつかいした(県の赤色ファイル帳には、きちがいが抗議にきたと記載されている)。

 新春日川橋の用地買収でとんでもないことがあったことを知ったしおりは、経緯を知るために当時の関係者何人にもあって確かめたり、法務局、国土交通省四国事務所、県の高松土木事務所などへ何度も出向いた。
昭和40年代は役人天国であった。市民が役所をたずねてうろうろしていると、ひまそうな役人に「おいこら、とろとろせんとあっちへ行け」と追い払われるような時代であった。
祖母は公務員からきちがいあつかいされた経験を、孫のしおりに涙ながらに話した。老いたおばあちゃんの無念さを知ったしおりは古文書を読みあさり、ついに堤防の民間払い下げの張本人が平賀源内であったことを突き止めた。
しおりは高松の河川堤防が南海地震にそなえて「放置できない民地」であることの資料を作ると、全国紙新聞社から取材をうけ社会面記事になった。
新聞を読んだ県庁と県議会がすみやかに動いた。しおりの調査を認めた国と県は民地堤防を正常な官地にするために、香川県河川課主導で膨大な枚数の隣地境界図やら堤防断面図までも作成し、周辺利権者のはんこをもらい法務局から最新地籍図を得た。

土地謄本によると香西家が所有する堤防の堤内堤外に600坪が存在する。境界確定後、国ははやばやと国道11号線北バイパスが占める100坪の土地を、公平をきすため複数の土地家屋調査士に評価させたうえで買収した。境界確定作業をした県も祖母とのうちあわせどおり、すみやかに買収する段取りになっていた。
ところがある日から県は、残る500坪の買収に意外な行動に出た。香西家の窓口になっていた香川県高松土木事務所用地課は、課長の交代を転機にしてこれまでの用地買収交渉を拒否する行動に出た。
 新しく高土用地課長に栄転した氏沢四郎は新高松空港の用地買収を期限までに成功させて天狗になっていた。空港用地取得は成田空港を見るまでもなく、困難を極める作業である。その任務を完璧にこなした氏沢(うじさわ)に意見できる者はいなかった。氏沢の上司である県知事でさえもできなかったのである。
祖母は地権者として県土の安全を優先して用地買収には応じるつもりでいた。祖母の売却条件は所有する堤防上にある河川氾濫監視小屋と堤防の人柱をまつる地蔵さんの追加保障をしてもらうということだけであった。
氏沢用地課長は祖母が知らないうちに、祖母が所有する小屋と地蔵さんを堤防借地人に保証金を支払って、こっそりと立ち退きをさせていた。
もうひとりの借地人は補償金の二重とりもくろみ、建築確認承認済みであるからと民事裁判で祖母に新築家屋中断損害補償金を求めてきた。新築の中断は河川課副主幹が香西家に要請したことである。
裁判所は証拠物件として県に立退契約書の開示を求め、支払った補償金額は公開された。判決文は県議会室で祖母の代理人をつとめたしおりから、香川県副知事に直接手渡されている。

天狗になっていた氏沢は同僚があつまる酒席で酔っぱらうと「空港が予定通りできたのは誰のおかげだ、オレだオレだ。県庁前玄関にわしの銅像を建てておがめ」とわめいたこともあったという。
 これまで親身になって祖母を担当していた用地主任はとつぜん退職し、綿密に交渉していた窓口の河川課主幹は見てみぬように避けるようになった。
氏沢は女系家族の香西家をなめてかかった。かってにしおりの祖母所有の不動産を処分するべく、強制収容執行の準備をしていた。
氏沢課長は春日川堤防と同時進行にあったしおりの祖母が所有する、通称観光道路とよばれる北バイパス11号線ができるまでの、国道11号牟礼中神線の土地住宅買収でも強制執行を行おうとした。
 11号線が通る御坊川(ごぼがわ)周辺には太平洋戦争敗戦後のどさくさで、林飛行場建設の強制労働で植民地朝鮮からつれられてきた人々が、道路わきや河川敷の空き地に住みついていた。
不法占拠された観光道路の一角3坪の官地を取り戻すため、県は県議会にうながされて買収の決定をした。そこは旧長尾街道の入り口であった。
国道11号線北バイパスの完成で、戦前から計画されていた観光道路の拡幅は必要性が無かった。氏沢の前の高土用地課長の説明では、不法占拠の家を狙い撃ちしたと思われないよう、ほかに2軒を買収して中断すると祖母に約束していた。
後任の氏沢課長がきてからは、これみよがしに琴電踏切から詰田川橋まで100軒をあっという間に買収した。祖母の土地と建物は氏沢課長のもくろみどおり強制執行の段取りが進み、道路は異様な広さにできあがった。

県と県議会が周到におぜんだてした春日川堤防と長尾街道入口の買収交渉を、自分かってに散々こじらしておいて氏沢高松土木用地課長は60歳で定年退職した。退職後は特許関係の天下り先でお気楽に勤めていることを知ったしおりの祖母は、しおりに事のいきさつを何度もくやしそうに語った。
旧国道11号線観光道路こと県道牟礼中神線拡幅工事にともなう、高松城の城域から遠くないオールド高松、旧高松市東の境界に流れる郷東川(ごうとうがわ)水系の御坊川(ごぼがわ)一帯に伝わる「鳴かぬなら、かくしてしまおうホトトギス」のエピソードである。



    第9章 四国州都指定からハズレた、県都高松市の悲しい未来



 オールド高松の成りたちは、1588年軍師官兵衛が領主生駒親正のために設計造作した高松城築城からはじまる。それから400年間を登り調子で発展してきたが、瀬戸大橋の完成で国鉄連絡船が廃止されると、またたく間に高松の衰退がはじまった。
 行政は衰退にストップをかけようと、連絡船発着港を埋立てサンポート区にシンボルタワーを建てるといった、税金をぶち込んだ箱物企画をつぎつぎに実行した。しかし、経済縮小と人口減少の加速化で高松の衰退を止めることはできなかった。
 3千年前縄文時代の日本の人口は2万人である。高松城ができた450年前の戦国時代でもたかだか2千万人である。それが団塊世代の人口ボーナスもあって、平成にはせまい日本には多すぎる1億3千万人までに増えた。日本の理想の人口は6千万人である。日本とおなじ島国で、南半球にあるニュージーランドの人口は650万人で豊かさをいじしている。

シンボルタワーホール棟の会議場では四国4県知事市長が集合して、4年後実施される道州制の四国州都を選ぶ最終会議が行われていた。道州制とは人口減少に対応するために、行政を合理化するために県の数を減らす政策である。
少子高齢化の日本は、ピークをすぎると毎年100万人の人口減少にすすんだ。香川県の人口はピークの100万人からすでに40万人まで減少しており、道州制による四国州の州都が松山市に決定することで、高松市の人口はいっきに8万になることが予想された。
 会議では四国の州都が松山市に決定した。するとこれまで高松にかまえていた国の支所や、民間企業の支店などすべてが松山に移転する。そしてそこに働く人々は家族をつれて高松から松山へ移動する。四国州都からハズレた高松市は四国の玄関機能役をうしない、ほどなく消滅都市になっていく。
高松市を破った松山市の勝因は、歴史文化遺産を大切にする街であるからだった。高松市の決定的な敗因は街づくり事業で、市が所有する亀井戸遺跡をみずから破壊して民間に土地を売却し、歴史遺産を後世にわたさなかった行為であった。
州都からはずされて人口減少が決定した高松市は、終戦当時と同じ経済規模になる。少ない住民がこころ豊かに暮らすためには、食料を自給自足でおぎない、所得を観光客から得ることである。自給自足は1人あたり300坪の畑があればできる。土地は松山へ行く人が売った安い土地がいくらでもある。観光客をよぶには歴史遺産が強力なワードになるが、血屋敷井戸をもとの場所に復元したように亀井戸も、もとの場所にもどして復元し、その上にガラスを敷いて商売をすればよい。丸亀町グリーンの建物はすでに老朽化して取り壊しの話もあがっているが、遺跡があればそこに観光客は内外からやってくる。

 田中陽太郎が求めるオールド高松の繁栄は「幸福度」である。役所が目標とするGNPではない。田中はさびれていくオールド高松を再開発するための、3つの秘策を考えていた。 
1つ目は、JR高松駅から讃岐電車瓦町駅まで路面電車を復活させることである。戦前は路面電車が走っていた。これを復活させたいと思っている。本丸石垣を犯す築港駅ホームをトラムで撤去できるからである。
2つ目は、玉藻公園の名前を高松城跡公園に変更して、お城と商店街を一直線に結び中堀に新常磐橋をかけ南入口で人の流れをつくることである。
3つ目は、結界を分断しているサンポートシンボルタワー棟を撤去して、風水にかなった街をとりもどすことである。

1つ目と2つ目は行政が動かなければどうしようもないが、3つ目は田中の得意技で実行された。
 オールド高松の地下には水道管や下水管、ガスの配管、そして電気の配管が迷路のようにはりめぐらされている。外科医者の田中には、配線や配管が人体の血管や気管に見えていた。エネルギーの導入部は動脈、各部屋への配線は毛細血管、排気ダクトは外呼吸器など、それぞれの役割が人体のそれとそっくりだった。ガンの全摘出手術をするようにタワー棟の破壊を実行した。破壊のエネルギーはサンポートの沖にある燃料備蓄基地からとりこんだ。巧妙に計られた時間差爆破で、粉砕されるようにタワー棟がくずれていく。
 ホール棟では梅松公子が小西市長に、玉藻公園に植える樹木の数を倍増すように要望しているさいちゅうであった。
 8階ホール棟の上にあるタワー棟の9階から30階までがゆっくりと崩れていく。市長の公子の上にくだけたコンクリートが落ち、鉄片が突き刺さった。
 爆破されたタワー棟の残骸は地下にすえられた巨大な貯水槽に、吸い込まれるように沈んでいき周囲は粉じんにつつまれた。
しばらくして雲がはれるように現れたシンボルタワーからは、タワー棟が消え8階から下のホール棟のみが残されていた。
ホール棟は龍神におそなえするリングがもうけられていて、高松城の風水にがっちした設計がなされている。オールド高松になじむ建物である。
 
高松城の脱出井戸のトンネルをつたって栗林公園の「赤壁」に向かっていた毬亜と源内は、龍神がすむ紫雲山のパワーにかき乱されて、栗林トンネルの配電盤のドアから外に出ることができた。
オールド高松の地下には複雑に張り巡らされた過去と現在のトンネルが交わっていて、高圧電線ショートの火花のショックで毬亜と源内は、体が元のしおりと田中の姿にもどっていた。
時限装置でタワー棟の破壊が始まったのは、ふたりのタイムスリップが終わったときであった。
 ふたりは西の島影に沈む夕陽に赤く照らされた屋島をながめながら、崩れおちた災いのシンボルタワー棟に乾杯した。
 しおりと田中はふるさとオールド高松をまことに愛している。子供がいないふたりにとって共通する人生訓は、「自分がなにを作った」ではなく「人のためになにを守った」かであった。
 翌日の讃岐新聞にはタワー棟爆破事件にまきこまれた小西市長と梅松公子の死亡記事ともに、コラム欄には足立OB記者の筆で爆破が怨霊都市伝説として書かれていた。
 世間ではシンボルタワー棟の破壊は、高松城の龍神さまの怒りがおこした仕業のようにうけとめられていた。

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 その後のしおりと田中の行動について触れておきたい。

ある日、街角のいたるところにふたりの顔写真が掲示れた。
香西しおりは死亡した小西市長の後任をきめる市長選にでた。抹殺した亀井戸遺跡を丸亀町グリーンの、もとの場所に復元するために立候補したのであった。
選挙ポスターのしおりの背景には、やさしくほほえむ天女マリアの姿がうつりこんでいた。

道州制の四国州都をのがした香川県最後の、県知事選挙に立候補したのは田中陽太郎であった。
選挙ポスターは覆面で顔をかくした田中と、背後には投票者をにらみつける怒り狂った悪龍がいた。

                       

                           終 (200頁版)




  


Posted by 築港万次郎 at 01:44Comments(0)